プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

Season of the Insects

ファーブル先生の昆虫教室

 

ファーブルは高齢になると年金による収入がなく生活は極貧であったと言われている。昆虫記ほか科学啓蒙書の売れ行きもさっぱりであった。85歳を超えたファーブルは健康を損なう事や、横になる事が多くなる。そしてヨーロッパ全土にファーブルを救えという運動がおき、当時のフランス大統領ポアンカレーはファーブルに年2000フランの年金と第5等のレジオンドヌール勲章を与える。しかし時すでに遅く、ファーブルは燃え尽きていた。

1915年、彼は担架に乗せられて愛するアルマスの庭を一巡りする。これが彼にとっての最期の野外活動となってしまう。そして同年10月11日老衰と尿毒症で亡くなる。ファーブル92歳の事だった。葬儀のときファーブルの眠る墓にどこからとも無く、虫が寄って来たと言う逸話が伝えられている。

(ジャン・アンリファーブル - Wikipediaより抜粋

 

 

近くの雑木林からカブトムシとクワガタが飛来するようになり、庭のサンショウの木から次々とアゲハのサナギたちが羽化していく。たまの晴れ間に布団を干していると、カメムシが布団にはりついてヒナタボッコしていて、そっと追い払う。庭に3種類居るアリが窓を開けていると入り込んでくる。今年もうちの軒下がスズメバチの巡回路になっているようだ。

 

夏の暑さは大嫌いだが、虫の気配が濃厚になるこの季節の雰囲気はとてもいい。

 

一般庶民レベルで虫を愛でるのは、世界でも日本人ぐらいだという話もあり、私が小学生の頃、最も尊敬する人物だったファーブルフランスでは単なる変わり者の扱いらしい。

しかし、最近は日本でも虫がダメな人が多くなってきた。だいたいうちでは長野県北部出身のいちばんの田舎者であるにもかかわらず母が大の虫嫌い。ヘビやトカゲも嫌いで、いつだったか庭に居たトカゲキンチョールをぶっ放しているのを見たときは大笑いしたものだ。

 

何にせよ、この地球は決して哺乳類や人間のものではなく、虫のものなんである。個体数でいえば。

ポドルスキの活躍を見て2006年ドイツ・ワールドカップと中田英のことを考えていた

赤目四十八瀧心中未遂

こういう私のざまを「精神の荒廃。」と言う人もいる。が、人の生死には本来、どんな意味も、どんな価値もない。その点では鳥獣虫魚の生死と何変わることはない。ただ、人の生死に意味や価値があるかのような言説が、人の世に行われてきただけだ。従ってこういう文章を書くことの根源は、それ自体が空虚である。けれども、人が生きるためには、不可避的に生きることの意味を問わねばならない。この矛盾を「言葉として生きる。」ことが、私には生きることだった。

車谷長吉赤目四十八瀧心中未遂』)

  

Jリーグの一員となった元ドイツ代表ポドルスキの活躍を楽しみながら、彼が若々しく躍動していた11年前のドイツ・ワールドカップのことを思い出す。あの時彼はクローゼと2トップを組み、ドイツは3位にとどまったが、C・ロナウドやメッシとともに最優秀若手選手賞に輝いた。

一方、
日本代表はオーストラリア相手に信じられないような逆転負け。クロアチア相手にことごとくチャンスを活かせず、予想されたことではあるがブラジルに横綱相撲を取らせた。

また、個人的に応援していたメッシを擁するアルゼンチンとジェラードが活躍したイングランドがどちらもPK戦で敗退して呆然としていたら、絶対に決勝までいくはずだったブラジルまで敗退。クロアチアオーストラリア、日本、ガーナと格下ばかりと試合をしていたにもかかわらず(いや、それが原因だったのかも)、ロナウジーニョは無得点に終わってしまった。ああ、と天を仰ぐ暇もなく、中田英の現役引退発表。ジェットコースターのように世の無情を感じる日々であった。この11年間、僕はさまざまな折に触れてドイツ・ワールドカップにおける中田英の孤独について考えてきた。

サッカーとは、ボールを使った喧嘩である。だからこそ、あんなにファウルの基準が厳しいのだし、オフサイドという一種の理不尽がまかり通る。ルールとは意味だ。空虚な喧嘩を通して、何か価値あるモノを生み出すための。それが幻想でしかないとわかっていても、人はボールを蹴り、走り、ゴールに向かう。ゴールに何があるという訳でもないし、勝利に意味があるかどうかも疑わしいところだ。しかし、その意味を問わねば、生きていくことはできない。人々はそこにロマンや人生の意味を投影し、皮肉屋はそれを矛盾であり、愚かであると嘲笑するかもしれないが、サッカー選手にはそれが当然の試練、いや通過儀礼である。逃げ場はない。しかし、中田英以外の日本代表選手には逃げ場があったように感じた。その後、そのことに気付いた当時の日本代表選手はベンチにいた遠藤だけだったように思う。

 

ドイツ・ワールドカップにおける中田英の孤独は、ずっと年上のモノカキである僕にほんとうにいろいろなことを教えてくれた。そして、なぜここで赤目四十八瀧心中未遂』なのかは、書いている僕自身がよくわからない。

『ポーの一族 春の夢』雑感。

ポーの一族 ~春の夢~ (フラワーコミックススペシャル)

ポーの一族 ~春の夢~ (フラワーコミックススペシャル)

 

萩尾先生は本気だ。

 

40年前、紅蓮の炎の中に消えた主人公たちとともに、完全に終焉を迎えたと思われていた『ポーの一族』の物語。昨年、40年ぶりの新作が掲載された雑誌がたちまち完売してしまった騒動も記憶に新しい。出版社はあわてて電子版を臨時出版した。それだけ多くの人が続編を渇望していたのだ。すなわちそれだけ多くの人の心がこのバンパネラの物語に侵食されていたのだ。もちろん僕もその一人である。


第一話(Vol.1)の雑誌掲載時、旧作との絵柄の変化に戸惑う暇もなく、時の向こうからやってきたエドガーやアランがページの中で動きだし、言葉を発するのを見て、僕は「ポーの一族」の世界観が微動だにしていないことを確信した。第2話以降、その確信は深まるばかりだった。

 

新作は決して「昔の名前で出ています」的な、懐メロ歌手やロックバンドに多い腑抜けたリバイバルなどではない。旧作で残ったままの伏線や読者が感じるだろう謎を作者なりに受け止めて、人生の様々な経験をくぐり抜け大人となった読者の期待に真正面から応えうる新しい物語を紡ぎだした。そんな萩尾先生の本気 度に感涙を禁じ得ない。ほんと泣くよ。

 

今回単行本となってまとめて読み返してみると、旧作との大きな違いは、絵柄とかキャラクターの性格付けといったディティールではなく、作品世界全体を見る作者の視座ではないかと思えた。簡単にいうと萩尾先生が、昔より一段上から、いわば俯瞰的に登場人物たちや作品世界を見渡しているように思えた。おかげで「春の夢」では、旧作で実態がよく分からなかった「ポーの村」のこと、ポーの一族以外にこの世界に存在する吸血一族のこと、エドガーがパートナーを求める理由などが次々と明らかになってくる。

同時に、作者が作品世界から少し距離を取ることで、登場人物を一層突き放して見るようになった印象を受けた。もともと萩尾先生は、登場人物の悲劇を描くことに長けている。ポーの一族で言えば、メリーベルやアランの最期など、読者的に「なぜだ….萩尾先生、鬼…」と恨みがましい思いを抱かせることを辞さない創作者魂を抱えたお方だ。新作「春の夢」のカタストロフ的なラストの展開は、これまで以上の酷薄な(←褒め言葉です)筆遣いにより、図太い中高年のおっさんである私の胸を太いニードルのようなものでグリグリとえぐった。ああ、かわいい、しっかりもののブランカ….。

 

この1巻で「春の夢」のストーリーは終わったが、来春より新たな「ポーの一族」の連載がスタートするという。今回登場した吸血仲間のファルカ、ポーの村の邪悪なクロエ、さらに死せるブランカのその後の動向はいかに? そして新たな能力を獲得したエドガーは、火災によるアランと自身の消滅というストーリーを書き換えることができるのか? ああ、楽しみで、楽しみで、楽しみで……夏と秋と冬をまとめてすっとばしたい気分です。

『ミッドナイト・アサシン アメリカ犯罪史上初の未解決連続殺人事件』 (スキップ・ホランズワース)雑感

 

ミッドナイト・アサシン アメリカ犯罪史上初の未解決連続殺人事件

ミッドナイト・アサシン アメリカ犯罪史上初の未解決連続殺人事件

 

本書は「ミッドナイト・アサシン」と呼ばれる100年以上前に米国で起こった未解決の連続殺人犯を追うドキュメンタリーである。
僕は知らない街を歩いていて、モニュメントや石碑があるとつい立ち止まってその由来書を読んでしまう。土地の有力者による自己顕示などたわいのないものも多いが、その街で起こった意外な出来事や思わぬ街の来歴について知識を得ることが出来、その場で深い感慨に耽ることも少なくない。本書を読みながら、それと同じような感慨を覚えた。

米国テキサス州の州都オースティンの「モニュメント」の一つに、街の各所に建っている古い鉄塔がある。19世紀末に建設され、当時は鉄塔のてっぺんに取り付けられたアーク灯で街の隅々まで照らされたという。その建設理由というのが、1884年12月から始まる連続殺人事件が市民に与えた恐怖を取り除くためだというのだ。しかしそのことはどこにも書かれていないし、市や州の歴史を調べても明文化されていない。なんとなく口づてに100年以上の時を超えて伝えられてきた噂にすぎない。

現在ではハイテク産業と音楽文化の興隆などで、全米屈指の経済発展力を有するオースティンだが、19世紀末の時点では、南北戦争の傷から立ち直らんとする人口数万人程度の片田舎に過ぎなかった。そこに意欲的な市長や州知事が登場し、テキサス大学(1883年開学)や全米随一と目された巨大な州議会議事堂などを建設して街の近代化に邁進……していたところに起きたのが「ミッドナイト・アサシン(深夜の暗殺者)」事件だった。町づくりへのモチベーションに冷や水を差したこの事件は、1884年の年末に起きた黒人奴隷女の殺害に始まり、翌年のクリスマスイブの2名の白人既婚女性の殺害に至る7件(8人殺害)の「連続殺人事件」だった。当初別々の事件と思えたものが残虐な手口や被害状況等から次第に同一犯の疑いが濃厚になっていく。何人もの容疑者が逮捕されたが、結局いずれも犯人とは決められなかった。
 
作者はテキサス州オースティン在住のベテラン作家・ジャーナリストで、当時の新聞や裁判記録などをくまなく漁り、膨大な史料をじっくり読み込み、その成果を駆使して、7つの事件の経緯と当時のオースティンをまるで見て来たようにいきいきと再現する。その手腕は確かなものだ。きめ細かく描かれた街の情景や時代の空気感が、数々の一筋縄では行かない登場人物をリアルに見せてくれる。惨劇に関係なくとても興味深い街であり、そこで生活しているのは、それぞれにユニークさを持つとても人間くさい人々だ。ちなみに登場人物の一人には、後の有名短編小説家O・ヘンリーもいる。またここでは詳述しないがスティーブンソンの「ジキルとハイド」も微妙に事件と絡んでくる……この感じ、なにか覚えがあるなと思ったのだが、あのTVドラマ「ツイン・ピークス」を彷彿とさせるのだ。あのドラマも殺人事件と土地が密接に結びついたプロットだった。また『呪われた町」など、スティーブン・キングの初期作品も同じムードを持っていたと思う。

オースティンの事件から数年経ち、英国ロンドン下町で売春婦の連続殺人事件が起きる。有名な「切り裂きジャック」事件だ。英米の新聞だけでなく、ロンドン警視庁さえ、「切り裂きジャック」の正体が、大西洋を渡ってきたオースティンの「ミッドナイト・アサシン」ではないかと疑った。
ロンドンの「切り裂きジャック」は伝説のサイコキラーとして現代まで伝えられてきたが、その〝先達〟であるオースティンの「ミッドナイト・アサシン」に関しては、現在では土地の人々でさえ噂することは少ないという。オースティン在住の作者も1988年までまったく知らなかったらしく、前述の鉄塔がこの事件に由来することを教えられ、仰天している。片田舎からの脱却、経済的・文化的発展をめざしていた当時のオースティンの街の人々は、むしろこの忌まわしい事件自体を無かったことにしたかったのだろう。そのもくろみは成功した。作者はその隠された事件のベールを、当時のオースティンを文章上で再現しながら、あらゆる角度から一枚ずつめくっていく。そこに見えてきたものは何か…。

本書は陰惨な連続殺人事件のドキュメントとしてだけではなく、事件のフィルターを通してオースティンという街が近代化をめざした端緒を語る歴史書としても読めるだろう。読後の深い感懐は、先に挙げたフィクション作品と共に、ギボンやミシュレなど欧州の歴史書のそれとも似ているように思えた。作者のオースティンの街に対する深い思い入れと史実探究への執念が、確実にこの作品の完成度を支えている。将来、私がオースティンに行くことがあれば、ぜひ本書を片手に「鉄塔」の下に佇んで、真夜中を駆け抜けた殺人者についての感慨に耽りたいと思う。

ウルトラセブンと玉川学園

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先日仕事で玉川学園を訪れた。創立者自ら鍬を持って山と雑木林を切りひらいたというキャンパスは、最近では話題のテレビドラマ「やすらぎの郷」のロケ地にも使われており、多彩でユニークな造作の校舎と生い茂る雑木林の豊かな緑でちょっと散歩するのも楽しい。スズメバチマムシ注意の看板もある。

キャンパスの真ん中辺りに大学工学部の校舎があって、その玄関の所に印象的な碑文が掲げられている。いわく「神なき知育は 智恵ある悪魔をつくることなり」創立者小原國芳の揮毫だという。

 

小原は周囲にこの言葉がガリレオ・ガリレイが発した言葉と言いふらしていたらしいが、それは彼一流のジョークだったようだ。実際はナポレオンと闘った英国の将軍ウェリントンの「宗教なき教育はただ悧巧なる悪魔をつくるなり」を小原なりに翻案した言葉だという。一連のオウム事件が起こった頃、僕は仕事のため頻繁に玉川学園のキャンパスを訪れていて、この碑文を見ながら思わず溜息をついていたことを覚えている。

 

碑文が設置されたのは1966年らしいが、その2年後に特撮テレビドラマ『ウルトラセブン』第18話「空間X脱出」で、ウルトラ警備隊隊長のキリヤマがこんな台詞を言っている。「(隊員たちに向かって)こんな言葉を知っているか?神なき知育は、知恵ある悪魔をつくることなり…。どんな優れた科学力を持っていても、奴(ベル星人)は悪魔でしかないんだ!

この回の脚本家は金城哲夫。沖縄出身だが上京して玉川学園高等部〜玉川大学文学部で学んだ。彼の脚本による『ウルトラマン』『ウルトラセブン』の回には名作が多く、そのプロットにはしばしば沖縄戦の影が見え隠れする。この回は学生時代に馴染んだ恩師の言葉を、一種の徒心だろうか、隊長のセリフとして試してみたわけだ。

金城はその後、円谷プロを去り、故郷・沖縄に戻るが、若くして不可解な事故で死んだ。享年三十七。同じ沖縄出身でウルトラシリーズの脚本家だった上原正三による伝記『金城哲夫 ウルトラマン島唄』は、その生き急いだ生涯を同郷の友としての視点から熱く描いている。また昨年、「ウルトラシリーズ」放送開始50年を記念して、彼の名を冠した脚本賞円谷プロダクションクリエイティブアワード 金城哲夫賞」が創設された。彼の人生は昭和という時代の光と影でもある。

金城哲夫 ウルトラマン島唄

 

一方「最後の私塾創立者」と呼ばれた玉川学園創立者の小原國芳は、教え子の金城より長く生きた。満90歳で亡くなる直前まで、車いすで児童・生徒・学生の前に現れ、講話・講義を行っていたという。彼の自伝 『教育一路』はとても面白い本だ。福沢諭吉の『福翁自伝』もそうだが、私学経営者というものは教育への情熱とともに、時代と切り結ぶ山師的なセンスも必要なのだとつくづく思わせられる。現在、私学の問題で政局が揺れているが、そうした山師の存在を許さない世知辛い世の中が果たしていいものかどうか…。水清くして魚棲まず。

 

現実の上空2mよりの落下。

 

海を見たことがなかった少年―モンドほか子供たちの物語 (集英社文庫)

 

モンドがどこから来たのか、誰にも言えなかったに違いない。ある日たまたま、誰も気がつかないうちにここ、私たちの町にやって来て、やがて人々は彼のいるのに慣れたのだった。

(J・M・G・ル・クレジオ『モンド』豊崎光一/佐藤領時訳 冒頭部)

このように始まる短編小説を読みながら(これで4度目だ)、私自身がいる「町」の人々が、私が「ここ」にいるのに慣れてしまっている現実から数センチ上をゆっくりと歩いていった。訳者の一人である豊崎氏(故人)は私が在籍した大学学科の教授で、別の先生(こちらも故人)による大学のゼミナールでこの小説を翻訳が出版される前に読んだことがあった…などと昔のことを憶ってみるが、あの頃は現実から2メートルぐらい上を歩いていた様に思う。でも、みんなはそんな私が「そこ」にいることに慣れてくれた。みんなも現実から1・5メートルくらい上を歩いていたからだ。

当時、自分が「ここ」まで来るとは思いもしなかった。では一体「ここ」とはどこなのだ。私は今、現実の数センチ下に居るのかもしれない。そんな気がする。

彼はすっかり暗くなるまで、灯台が規則正しく四秒ごとに合図を送り始めるまで釣りをしていた。

(上掲書・ラスト部分)

そして物語はこのように唐突に終わってしまうのだ

夏がくれば思い出す。死について断片的に。

 

ナボコフの1ダース (サンリオ文庫)

幼い頃は人の手のことをいろいろ知っているものだ。手というものはいつも背の高さあたりにふらふら住んでいるからだ。マドモワゼルは気持ち悪い手をしていた。

ウラジミール・ナボコフナボコフの1ダース』より「マドモワゼルO」中西秀男訳)

 前回の続きのようでそうでもない話。

 かつて私は神経質な子供と言われていたが、今では無神経なおじさんと呼ばれつつある。自分ではまだ、神経質な少年のつもりだが、しかし子供の頃、ひどく気になったり、不快だったりしたことが、なんだかそれほど気にならなくなっていることは事実だ。それどころか、不快だったはずことがなんとなく良い印象さえ覚える様になっている。特に感覚や身体がらみのことにそうした事例が多い。あとはちらかった部屋とか。それを克服といっていいのかどうかはよくわからない。人間が長く生きていれば、いろんな変化があるし、若い頃の自分とは異なる自分を楽しめることに感謝するだけだ。無神論者なので神にではない。

 逆に若い頃はまったく眼中になかった「死」というものに対する感覚が、鋭敏になってきたような気がしている。死ぬのが怖いとかいうことではない。身近な人が死んでいくのをいくつも目にしているうちに、周囲の人に与える影響を含めた「死」の諸相への関心が高まりつつあるのだ。また、死んだ人が「生きることができなかった時間」を思うにつけ、生死が表裏一体となった自分の限りある人生への重いが深くなった。

 

 今月亡くなった野際陽子さんの死に様にも大いに関心を抱いた。飄々としているように見えて、きわめて自分の厳しい美学を強いていた方だったと言うことが、亡き人を惜しむ同業者たちの哀悼の言葉から浮かび上がってくる。実にかっこいい人生だったと思う。

 

 以前、私が小学校4年生の時にサッカー部の先輩がプールの事故で亡くなったことを書いた。あれは夏休み前の7月初旬だった。 僕より3歳年上だったので、生きていれば来年は還暦を迎えたはずだ。

 

 10年ほど前に、娘の幼稚園時代の同級生のおかあさんが亡くなった....と聞いたのは梅雨の明けやらぬ6月末ごろだった。大腸がんで3年ほど闘病生活を送っていたという。私も幼稚園の行事や遠足などの機会に何度か話をしたことがある顔見知りで、大柄で健康的な感じの美人であった。しかもそこのうちの息子は、幼稚園時代の娘がいたずらっこにちょっかい出されると、かばってくれたりしたので私としてはとても好感をいだいていた。坊主頭で体格がよく、素朴な表情が印象的で、なんだか1960年代の子供みたいだったことを覚えている。卒園後は地域の関係でうちの娘と別の小学校に進んだ彼が、母の死という重みになんとか耐え、しっかりと成長していってくれることを心から願う。今は娘と同じ二十歳だ。

歌舞伎役者の奥さん(元アナウンサー)のガン死も話題となった。四半世紀ほど前だが、僕の従姉も小さい子どもを残して33歳でガンで亡くなった。残された子どもを心配する声も聞かれるが、子どもはけっこう逞しいモノですよ。それに歌舞伎役者のようにしっかりした「家」があればまず心配いらないのではないか。

 

昨日は2歳で病死した妹の仏壇の写真を替えた。たった2歳だ。それがどういう人生だったのか(2歳の娘を亡くした親というものの気持ちも)、この半世紀、しばしば考えた。現在生きていれば53歳のおばさんだ。そして、その”片割れ“は見事におばさんと化している。妹は双子だったのである。ビートルズが来日した年に死んだ妹は、両親の、そして兄である私の手が見えていただろうか? 

おばさんになったお前に会いたかった。