プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

日本史はいかに物語られてきたか (河野有理 著/新潮選書)を読んだ。

日本史はいかに物語られてきたか (新潮選書) | 河野 有理 |本 | 通販 | Amazon



本書は日本史そのものを論じる本というよりも、「日本史が戦後日本でどのように語られ、解釈されてきたのか」をたどる日本の戦後思想史の試みです。そのため著者は、歴史学者の研究成果よりも、作家、知識人や評論家たちが描いた「日本史の物語」に着目し、それらが戦後社会においてどのような役割を果たしたのかを分析します。

本書で取り上げられるのは、網野善彦、山本七平、司馬遼太郎、松本清張、梅原猛、吉本隆明、坂本多加雄、山川菊栄、高群逸枝、家永三郎、羽仁五郎、平泉澄ら「右」から「左」まで、一部戦前の論者も入っていますがほとんどが戦後の論者によるに「日本史の物語」です。

中心的なテーマは、戦後日本における多様な史観の興隆と衰退。戦前の「皇国史観」、戦後しばらく影響力を持った「マルクス史観」が後退するなかで、多くの知識人が独自の歴史解釈を提示しました。その結果、1970~90年代には、多様な歴史観が競い合う豊かな思想空間が生まれました。ここら辺の論壇の雰囲気は私も大学生~社会人だったので記憶にあります。大日本帝国の侵略戦争の正当化や自虐史観の否定という名目のもとでの学術的な事実誤認、神話と史実の混同などが批判されました。私もなんだかなあ…と思っていました。
しかし21世紀に入ると、そのような大きな歴史物語や史論は次第に影響力を失っていきました。私の実感では、なんというか、右も左も安易な正義や仲間内(左右両陣営とも)のボキャブラリーに終始し、「論」としての史観や歴史物語が語られにくい世の中になったような気がします。というか本書を読んでそのことに気付かされました。

本書を読んでもっとも驚くのは、「右」の論者(たとえば坂本多加雄、西尾幹二、平泉澄など)と「左」の論者(網野善彦、上野千鶴子、羽仁五郎など)の史観や歴史の物語り方には意外と重なり合う部分が多いということ。そこら辺りの叙述が実にスリリングでまるでミステリーを読んでいるような気分になりました。あとは羽仁五郎の“面白さ” や雑さは現在の“リベラル左翼”と呼ばれる人々の凋落の遠因になっているような気がしました。20世紀の知的豪傑・羽仁五郎なら許されるかもしれないけど、21世紀の、それも普通の人がそれをやったらそりゃあ嫌われるだろう……というような。

先月発売されてすぐに購入した本書ですが、毎晩寝る前に一章ずつ読み、すると各章に刺激されて、翌日に西尾幹二「国民の歴史」、網野善彦『無縁・公界・楽』、上野千鶴子『セクシィ・ギャルの大研究』、さらに山川出版社『詳説日本史』などを引っ張り出して拾い読みしていたので思いのほか完読に時間がかかってしまいました。でも、今は読み終わってしまったのがなんだか残念…同コンセプトでの続編を期待しています。

#本日の1冊 『マグダラのマリア』岡田温司(中公新書)

NHK総合で原田マハの小説をドラマ化した『まぐだら屋のマリア』(全4回)の再放送があり、昨日が最終回でした。
かなり密度が濃いドラマで俳優と演出・脚本のレベルの高さはNHKならでは。ぜひ、続編を作って欲しい。
聖書の「マグダラのマリア」伝説をインスパイア元にしながら、その「改悛と許し」「復活、再生の立会人」というエッセンスのみを取り出し、独自の「寓話」を展開しています。そう、これは徹底して現代の「寓話」なんですね。
タイトルや登場人物のネーミングがそれを示唆しています。
舞台となる『まぐだら屋』は"尽果(つきはて)"という北にある寂しい漁村の海に面した絶壁の上に立つ小さな食堂。食堂を切り盛りするのが尾野真千子演じる有馬りあ(マリア)で、自殺するために尽果をたどり着き「マグダラ屋」で働くことになった紫紋(シモン)、そのシモンの自殺の動機となった死んだ後輩にそっくりな丸狐(マルコ)貴洋、マリアが尽果に来た理由である元高校の恩師・与羽(ヨハネ)など、登場人物の命名はいちいち聖書の使徒をなぞらえています。
そして謎の来歴を持つマリアを「悪魔」と罵倒する食堂のオーナーが岩下志麻演じる桐江玲子。おそらくその名字はKyrie「主よ!」のもじりでしょう。岩下志麻の存在感は圧倒的で、確かに尾野真千子に対峙し、圧倒するためにはふさわしいキャスティングといえます。現役の居酒屋の女将さんである尾野真千子の楽しそうにやってる演技も特筆ものでしょう。
ちなみに『まぐだら屋』の名前は聖書の「娼婦=聖女」由来ではなく、尽果に伝わるとされる「まぐだら伝説」からとられた店名で、これは姫を助けるために自分の命を犠牲にした召使い(じつは実母)の悲しい話。死んだ召使いを哀れんだ神様はマグロとタラが合わさった怪魚「まぐだら」として母親を復活させる。
というわけで「本家・マグダラのマリア」に関する一般向けの解説書。「貞節にして淫ら」という本来人間が持つ正邪二面性を体現するマリアがどのようにキリスト教布教に利用されてきたかを絵画など芸術作品での描かれ方を参照しつつ文化史、芸術史の側面からたどっていきます。そこから読者はキリスト教(とりわけカトリック)における女性蔑視とそれを隠蔽するレトリック、過度な性倫理の由来などを読み解くヒントを得ることもできるでしょう。

 
 
 
 
 
 
 

『秀吉の経済感覚: 経済を武器とした天下人』脇田 修著 (中公新書 1015)

小学生の時に名古屋で暮らしたこともあって、特に織豊時代の歴史については子どもの頃からずっとフォローしてきた。歴史家による信長像や秀吉像も昭和と現代ではかなり変わってきた。
明智光秀もそうだが、木下藤吉郎秀吉はまずその出自がほぼわからない。どうやら農民ではなさそうだし、武士の家系でもなさそうで、近年は草の者、隠密のような存在だったのではないかとも言われている。同じ信長配下の滝川一益は出自が甲賀者という説が有力だ。
天下人として秀吉の特色は、やはり本書のテーマでもある商都・大坂を創りあげた経済エキスパートとしての一面で、これは永楽銭を旗印にし、楽市楽座を積極的に推進した主君・織田信長譲りのものかもしれない。
大名統制、検地、南蛮貿易はもちろん晩年の朝鮮出兵もおそらくは経済的な理由が大きかったのだろう。本書の最後の章には「秀吉に欠けていたのは国際的視野」で、「彼ほどの男でも島国の弱さをまぬがれなかった」とある。
本書はそうした秀吉の経済人としての「功罪」両面を一般向けにわかりやすく解説し、幕末~明治の近代化や現代経済に及ぶその影響について読者に問いかけ、解き明かす。
この本は先日、亡父の蔵書から見つけた。1991年3月刊。35年前、私が結婚する1か月前だ。父は今の私より若かった。本をめくると何カ所もページの端が折ってあり、それらのページには蛍光ペンで文章の一部に線が引かれている。
新聞記事か、自著の参考文献にしたのか、あるいは当時は新聞の書評委員をやっていたので、本書を紹介するために読み込んでいたのかもしれない。著者も父もほぼ同い年で大阪の商家の生まれなので、面識があった可能性もある。

『デヴィッド・ボウイ 増補新版 ――変幻するカルト・スター 』(野中モモ著 ちくま文庫)を読んだ

 

デヴィッド・ボウイ 増補新版 ――変幻するカルト・スター (野中モモ著 ちくま文庫)
デヴィッド・ボウイが亡くなって1年後に出版された新書を、没後10年となる今年1月に大幅に増補改訂した文庫版が出た。判型こそ小さくなったが、新章「ボウイのいない場所で{2016-2025}」が追加され、中身はかなりスケールアップしている。
昨夜から今朝にかけて、ボウイの出世作2枚と最後の2枚をリピートしながら、文字を追った。著者は冒頭の《はじめに》で「同じデヴィッド・ボウイのファンでも、ひとりひとりの『自分にとってのボウイ』」がいる、と書く。そのことを踏まえ、ボウイという表現者と彼が生きた時代を事実をベースにしたきわめて冷静な筆致で書き進める。時代を区切った章立ても的確。読み始めてすぐに思わず引き込まれてページをめくる掌がどんどん早くなっていくのは、著者(と私)の深いボウイ愛の奔流、ゆえだろう。
中身を詳しく紹介するのはやめておくが、少しだけ触れると、少女マンガ家たちにボウイが与えた影響についてかなりの紙幅を割いている。日本人だからこそ書けるパートだ。大島弓子ファンは思わずにんまりするはず。またボウイが京都など日本の文化を特別に愛したとよくいわれるが、彼は日本だけではなく、アジアや中東、中南米、アフリカなど広く世界各地域の文化を愛していた、と作者は釘を刺す。コレ重要。
読後、私はまず人生の短さを思った。こんなに中身が詰まった人生なのに、あっという間じゃないか。そして同時にボウイという人間の天才性は彼の心の中の「空虚さ」に支えられていたのかもしれないとも思った。ファンを当惑させる変貌も持たざる者であるがゆえの身軽さだったのではないか。
彼と同世代のベテランミュージシャンたちが、過去の栄光にしがみついてリユニオンなどの名目で感動の縮小再生産を繰り返しているのを横目で見るに付け、ボウイという揺るぎなき表現者の素晴らしさがあらためて浮き彫りとなる。私はティン・マシーン時代を含めて3回彼のライブを経験しているが、その思い出だけで十分だ。

#本日のアナログレコード虫干し The Beach Boys / Pet Sounds (1966)

 

 今日は伝説的な女性スタジオミュージシャンであるキャロル・ケイの誕生日。御年91歳だそうです。 今年発売60周年のこのアルバムでもキャロルは何曲かに参加しているようですが、どの曲かははっきりわかりません。確か何かのインタビューで「Sloop John B」で彼女自身がベースを弾いたと言っていた覚えがあります。アルバムにはベーシストとしてキャロルの他にレイ・ポールマンも参加しており、ブライアン・ウイルソン自身も1曲弾いていたはず。キャロルは数曲で、ギターも弾いているらしいです。 それにしても1966年は同年来日したビートルズ「リボルバー」といい、ディラン「ブロンド・オン・ブロンド」といい、時代を画す革命的名盤がたくさん出ていますね。しかもビートルズもビーチボーイズも当時はアイドル扱いでした。 マイナーなところではフランク・ザッパ「フリーク・アウト!」もこの年ですね。いずれの作品からも“時代が動く”軋み音が聞こえてくるようです。

#本日のアナログレコード虫干し IGGY POP / The Idiot (1977)



49年前の今日発売されたイギー・ポップの ソロデビューアルバム。プロデュースはデヴィッド・ボウイで、ほぼ同時期にほぼ同じメンバーによって同じベルリンのハンザスタジオでいずれもトニー・ヴィスコンティがミックスを担当して録音されたのがボウイのヨーロッパ三部作の1作目にして超名盤の『LOW』だった。

ボウイにとっては『LOW』制作のためのウォーミングアップ的な意味があったのかもしれないが、本作が一定のセールスを記録したことでドラッグ禍で音楽活動がままならなかったイギーは立ち直る機会を得た。

「The Idiot」は全曲イギーとボウイの共作で、収録曲の「China Girl」は後年ボウイが『レッツ・ダンス』でセルフ・カバーし、シングルヒットした。その売上はまたしてもジャンキー状態だったイギーの復活のために活かされたらしい。そういえば、もともと『愚者(おろかもの)』だった邦題が、このヒットを機に「チャイナガール」に変わってしまった。

イギーと、ボウイ、二人は同年生まれだが、いつ死んでもおかしくなかったイギーの方が結局長生きしている。10代の頃はキース・リチャードがジョージ・ハリスンより長生きするなんて思ってもみなかったし、人生って、ほんとうにわかりません。