プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

夏がくれば思い出す。死について断片的に。

 

ナボコフの1ダース (サンリオ文庫)

幼い頃は人の手のことをいろいろ知っているものだ。手というものはいつも背の高さあたりにふらふら住んでいるからだ。マドモワゼルは気持ち悪い手をしていた。

ウラジミール・ナボコフナボコフの1ダース』より「マドモワゼルO」中西秀男訳)

 前回の続きのようでそうでもない話。

 かつて私は神経質な子供と言われていたが、今では無神経なおじさんと呼ばれつつある。自分ではまだ、神経質な少年のつもりだが、しかし子供の頃、ひどく気になったり、不快だったりしたことが、なんだかそれほど気にならなくなっていることは事実だ。それどころか、不快だったはずことがなんとなく良い印象さえ覚える様になっている。特に感覚や身体がらみのことにそうした事例が多い。あとはちらかった部屋とか。それを克服といっていいのかどうかはよくわからない。人間が長く生きていれば、いろんな変化があるし、若い頃の自分とは異なる自分を楽しめることに感謝するだけだ。無神論者なので神にではない。

 逆に若い頃はまったく眼中になかった「死」というものに対する感覚が、鋭敏になってきたような気がしている。死ぬのが怖いとかいうことではない。身近な人が死んでいくのをいくつも目にしているうちに、周囲の人に与える影響を含めた「死」の諸相への関心が高まりつつあるのだ。また、死んだ人が「生きることができなかった時間」を思うにつけ、生死が表裏一体となった自分の限りある人生への重いが深くなった。

 

 今月亡くなった野際陽子さんの死に様にも大いに関心を抱いた。飄々としているように見えて、きわめて自分の厳しい美学を強いていた方だったと言うことが、亡き人を惜しむ同業者たちの哀悼の言葉から浮かび上がってくる。実にかっこいい人生だったと思う。

 

 以前、私が小学校4年生の時にサッカー部の先輩がプールの事故で亡くなったことを書いた。あれは夏休み前の7月初旬だった。 僕より3歳年上だったので、生きていれば来年は還暦を迎えたはずだ。

 

 10年ほど前に、娘の幼稚園時代の同級生のおかあさんが亡くなった....と聞いたのは梅雨の明けやらぬ6月末ごろだった。大腸がんで3年ほど闘病生活を送っていたという。私も幼稚園の行事や遠足などの機会に何度か話をしたことがある顔見知りで、大柄で健康的な感じの美人であった。しかもそこのうちの息子は、幼稚園時代の娘がいたずらっこにちょっかい出されると、かばってくれたりしたので私としてはとても好感をいだいていた。坊主頭で体格がよく、素朴な表情が印象的で、なんだか1960年代の子供みたいだったことを覚えている。卒園後は地域の関係でうちの娘と別の小学校に進んだ彼が、母の死という重みになんとか耐え、しっかりと成長していってくれることを心から願う。今は娘と同じ二十歳だ。

歌舞伎役者の奥さん(元アナウンサー)のガン死も話題となった。四半世紀ほど前だが、僕の従姉も小さい子どもを残して33歳でガンで亡くなった。残された子どもを心配する声も聞かれるが、子どもはけっこう逞しいモノですよ。それに歌舞伎役者のようにしっかりした「家」があればまず心配いらないのではないか。

 

昨日は2歳で病死した妹の仏壇の写真を替えた。たった2歳だ。それがどういう人生だったのか(2歳の娘を亡くした親というものの気持ちも)、この半世紀、しばしば考えた。現在生きていれば53歳のおばさんだ。そして、その”片割れ“は見事におばさんと化している。妹は双子だったのである。ビートルズが来日した年に死んだ妹は、両親の、そして兄である私の手が見えていただろうか? 

おばさんになったお前に会いたかった。