プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

ちくま文庫『楠勝平コレクションーー山岸凉子と読む』を読んだ。

楠勝平コレクション ――山岸凉子と読む (ちくま文庫)

楠勝平コレクション ――山岸凉子と読む (ちくま文庫)

 

先週末に出先の近くの本屋を覗いて手に取った『楠勝平コレクション』を読んだ。楠勝平は1960年代後半から70年代初頭にかけて主に『ガロ』を舞台に作品を発表していたマンガ家で、1974年に30歳で病死している。子どもの頃から心臓弁膜症を患い、生と死の境界線を常に見続けてきたであろうその眼差しで、庶民の哀感を詩的で瑞々しい筆致で描き出すその作風は、彼が師事していた白土三平の文明批評的な作品や同じ『ガロ』で活躍していたつげ義春の実験的な作風に比べると、どうしても地味な印象を受ける。しかし、逆に半世紀以上を経てみると、前2者より時代の変遷で風化してしまう部分が少ないのではないかと再読して思った。たとえば冒頭に収録されている「おせん」は善良な庶民の心のに巣食う悪という普遍的なテーマをじつにさりげない手法で取り出してみせる。一方、2部に分かれた「茎」という作品は、他の多くの楠作品同様に江戸時代を舞台にしているが、女性がキャリアを積む際に直面する困難という非常に現代的なテーマを扱っていることに驚かされる。


本書はサブタイトルに「山岸凉子と読む」とあるとおり、山岸凉子さんが収録12作品を選び、巻末に解説を寄せている。山岸さんはマンガ家志望の少女時代に『ガロ』を愛読し、楠勝平の作品に出会った。後年、人間の心の闇を容赦なく描き出すことになる山岸さんが、庶民の生き生きとした生を描きながら、どこか死を意識させる楠作品に心を寄せていったのは十分納得できることだ。「楠さんに駄作はない。(中略)そんな私でも、楠さんの本当の良さに気付くのはもう少しあとになってからのことでしたが……」(『楠勝平コレクション』編者解説より)。

 

その後、花の23年組の一人として人気作家になった山岸さんが楠勝平と再会したのは、解説によれば70年代末頃、単行本『おせん』を書店で見つけて、手に取ったことだった。楠が亡くなったことを知らず、本の帯に「夭折の作家」と書かれているのを目にして「私が好きだった作家がなんてことだ」と狼狽されたという。

実は私が「楠勝平」という作家を知ったのも、ちょうどそのエピソードと同じ頃だと思う。まだ高校生で、当時は知る人ぞ知るミニコミ書評誌だった『本の雑誌』誌上で、単行本『おせん』に関する2ページほどの書評記事が掲載されていたのだ。私はそれを読んで、筆者の楠勝平に対する思い入れに感銘を受けた。その後、楠の短い作品を2作ほど読んで面白く感じたが、それよりむしろ名前も忘れてしまった書評筆者の夭折の天才作家・楠への傾倒ぶりがしばらく心に残っていた。本書の編者解説を読んで、その気持ちが蘇った。あの沈着冷静な山岸凉子さんがまるで少女のように目を潤ませながら楠への想いを吐露しているのだ。

 

今回「おせん」などの代表作まとめて12作品を読み、私も「楠さんの本当の良さに気付」くことができたように思える。人生の断面を独特の角度で切り取り、楠勝平にしかできないストーリーテリングで、生と死の狭間にたゆたう人々の暮らしの様相を読者に投げかける。難解さはなく、声高でもなく、誰もがさらっと読めるが、気がつくと心に何か刻印を残すであろう楠作品。長年、単行本が絶版でなかなか読む機会がなかった名作群へのアクセスを容易にした今回の刊行を心から歓迎したい。また、編者の山岸さん自身もまだ収録したい作品があったようなので夭折の天才作家アンソロジー第2弾が近々発刊されることを待望する。

「決定版 大東亜戦争(上 下)」を読む

 
今月に入ってから読んでいる新刊「決定版 大東亜戦争」。敗戦後、じつに76年を経て日本人がイデオロギーを排して自らの戦争を検証した1冊(上下だから2冊か)で、書名通りの力もこもった叙述に圧倒される。日本の視点だけでなく、米国や中国からみた大東亜戦争についても詳述され、新しい知見もかなり得られた。著者の一人・戸部良一さんは、日本軍の作戦行動から日本の組織の問題を抽出した名著「失敗の本質 日本軍の組織論的研究」の著者の一人でもある。こちらもあらためて併読している。
ミッドウエイ、ガダルカナル以降は物量で日本軍を圧倒していたかのように思える米国も、ヨーロッパ戦線との兼ね合いでかなり煩悶し、内部対立を生じながら厳しい戦いを戦っていたことがよく分かった。決して肯定はしないが核兵器使用への道もそこらへんにあるのだろう。重慶政府の蒋介石の(はずれてばかりいる)思惑とそのふるまいも興味深い。
一方、日本では開戦直後から重光葵外相と外務省が和平への可能性を模索するも、陸海軍の抵抗と重光自身の「大東亜」観の限界から結局は頓挫し、無様な敗戦を迎える。ミズーリ号艦上で無条件降伏の調印をした重光の思い、いかばかりか。

日曜日の午前中、ブレヒト『三文オペラ』を読む。

三文オペラ (光文社古典新訳文庫)

三文オペラ (光文社古典新訳文庫)

 

東京五輪のおかげでテレビを見なくなったので、積読を鋭意処理中。今日の午前中は学生時代に確か千田是也訳を読んで以来の『三文オペラ』。新訳はとてもこなれていて、このまま舞台で使えそう…と思ったら、あとがきに新国立劇場の宮田慶子舞台監督からの依頼で舞台向けに訳されたものだと書かれていて納得した。戯曲というのは、上演されて初めて完成形となるものなので、読むという行為に不全感が付きまとうが、逆に読むという行為の中でイマジネーションを広げる余地も広い。乞食と盗賊と娼婦を中心としたこの物語には、いわゆる下品な言葉やエピソードが満載。劇中歌は放浪と無頼のフランス詩人フランソワ・ヴィヨンからのインスパイアが多く、翻訳もそこらへんのイリーガルで猥雑な雰囲気をよく伝えている。訳者解説で「言葉を隠すことは事実を隠蔽することと表裏一体」と、文学作品に対する過度なポリティカルコレクトネスの発動に警鐘を鳴らす。
本作品は舞台でも、女たらしの盗賊首領メッキーズが主役として扱われてきたし、私もずっとそう思っていたが、この翻訳では彼を取り巻く女性たちが生き生きと描かれており、その印象が覆る。光文社古典新訳文庫の特色でもある詳細な解説を読みながら、実は女性たちが繰り広げる人間の本質に根差すドタバタ劇『三文オペラ』の舞台を見てみたくなった。

『アーバン・アウトドア・ライフ 』芦沢一洋 を読んでみた。

アーバン・アウトドア・ライフ (中公文庫)

アーバン・アウトドア・ライフ (中公文庫)


日本に「アウトドア」という概念を持ち込んだ人物の一人といわれている芦沢一洋。僕がフライフィッシングを始めた当時、専門誌の「フライフィッシャー」や「アングリング」といった雑誌に連載を持ち、雑誌の中でも他の執筆陣とは別格の扱いを受けている印象があった。彼の文章の内容は初心者にはやや高踏的で、なんのこっちゃい?という思いもあったが、この世界ではレジェンドなのだろうという納得もあった。

彼が書いたフライフィッシングの入門書「ベストフライフィッシング : イラスト教書」も買ってみた。面白い本だけど、広く初心者を相手にする入門書としては余り出来が良くない。趣旨は「芦沢が考えるフライフィッシングのあり方」みたいなところにある不思議な入門書なのだ。すなわち具体的なスキルより、得るべきスピリットを優先させる思想が、この世代を中心としたアウトドアーズマンには濃厚に立ちこめていた。私が30過ぎるまで、アウトドアにも、フライフィッシングにも近寄らなかったのはそのあたりがうっとうしかったということに尽きる。そういうオトナたちとは距離を置きたいとずっと思っていた。

 

本書は「自然を愛する眼と心さえ持っていれば、都会でも発見に満ちたアウトドア・ライフを送ることができる」と都会でアウトドアーズマンとして生きる心得を語った本だ。もともとは1984年に講談社現代新書の1冊として刊行されたが、2018年に中公文庫で復刊した。先日立ち寄った書店の「中公文庫希少本フェア」で見つけたので買ってみた。中公文庫版には巻末に芦沢夫人の佐知子さんとアウトドアグッズの輸入代理店A&Fを創業した赤津孝夫の短い対談が入っている。

結論から申せば、今となってはそれほど面白い本ではない。「面白い」とは発見や深い納得があるということで、そういう視点から本書を読み進むと「ああ、芦沢さんっぽいな~」というひたすら事実確認の連続となる。この世代のアウトドアーズマンが抱く自然観、環境保護思想、自然との〝共存〟を目指すライフスタイルの典型が、その軽妙だがやや生硬な文章で語られていく。なぜ生硬かと言えば、そこに揺るぎない価値が存在すると著者が信じているからだろう。そしてここらへんの思想がほぼ米国文化への憧れに由来しているところに、この世代特有の臭みがある。もちろんお約束のように本書では『ウォールデン 森の生活』を書いた米国の思想家ヘンリ・ソローの名が折に触れて出てくるわけだ。

 

面白い本ではないが、読者経験としては面白かったとも言える。芦沢さんはもともと雑誌や広告などのアートディレクターなので、まず形(物)からアウトドア趣味に入っていった。そのことは巻末の対談で夫人の口から語られている。ソローの引用で《人間はなしですませる物が多いほど、豊かなのだ》との言葉も掲載しているが、通読すると芦沢氏のアウトドア・ライフの根幹には物や形へのこだわり、強い執着がある。そこにこの人の精神の揺らぎがあり、そのことを鍵に本書を読み解けば、これが一つの文学、私小説であることがわかってくる。ご自身でも言及されているが、芦沢氏が元々の都市生活者ではなく、山梨の山村出身であることも、本書の重要なモチーフだ。

本書をそれなりに楽しく読みながら、使い切れないほどの釣り竿やリールを持っていながら、一向に物欲が収まらない釣り仲間たちについて考えた。自然とアーティフィシャルな世界の間でぐらぐら揺らぎ、大きな矛盾を抱えながら次の一匹を夢見る愛すべきアウトドアーズマンたちよ!

読後1年近くを経てフローベール『三つの物語』の感想を記す

三つの物語 (光文社古典新訳文庫)

三つの物語 (光文社古典新訳文庫)

 

フローベールの代表作と言えば誰しも『マダム・ボヴァリー』『感情教育』といった長編小説をあげるだろう。ところが本書の帯には「フローベールの最高傑作」と書かれており、昨年の今頃、思わずほうっと思って手に取った。ぼくはもともと短編小説マニアであり、大学ではフローベール研究の授業も履修していたのだが、本書はいままで未読だった。訳書が手に入りにくいという事情もあったが、なによりフローベールは長編小説に本領があると思い込んでいたからだ。

しばらく積ん読にしておいたのだが、昨夏のソロキャンプに薄いという理由で本書を持って行った。満点の星空の下、ランタンの明かりで読んだ本書は思わぬ幻想性を備え、不意打ちされたような感動に満たされた。その感想を1年近く経った今頃書こうとしている。

本書は署名の通り、蜜の短編小説から成り立っている。まず「素朴なひと」は、無学だが無垢な信仰心を持った女召使いの生涯と死が描かれている。フローベールにしてはあまりに素直な作風に面食らう。ラストの救いのイメージが印象的だ。

 

次に両親を殺すという宿命から逃れられない城主の御曹司の来歴を描いた「聖ジュリアン伝」が続く。前作とまったく作風が異なり、神話のごとく飛躍も内在しながら一気に物語が進む。血なまぐさい話だが、最後、神の化身だろう癩者とともに昇天するシーンがあまりに美しい。そして最後に置かれた「ヘロディアス」は、あのサロメ伝説をベースにした短編だ。日本人的にはこれがいちばん難解な作品かもしれない。ラストシーンは思わずぎょっとする描写で締めくくられている。

 

 

時代も、題材も、作風も異なる3作品だが、実はキリスト教というキーワードで結ばれている。「素朴なひと」=信仰、「聖ジュリアン伝」=聖性、そして「ヘロディアス」=宗教の創生。といってもこれらはキリスト教信仰の啓蒙では決してない。そもそもフローベールはむしろ反キリスト教的な作家だ。「素朴なひと」の主人公の信仰は、よく読めばキリスト者であれば眉をひそめるであろう場面が多いし、他の2作も信仰のいわば暗黒面を照射するシーンが多い。しかしそれでも人は救われるのだ……ペシミストフローベールが長編に埋め込んでいた(必ずしも報われない)希望への意志が、この3作にはピュアな形で表現されていた。そして3作揃ってのメッセージであったのだ。なるほど「最高傑作」とはそういうことか!

今月、亡父の旧著が復刊される。

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興亡――電力をめぐる政治と経済

 

今月、亡父の旧著が復刊される。先日、出版社の社長さんが刷り上がった本を直接届けてくれた。色校正で見ていたから驚きはなかったが、特色の鈍い「金」のタイポグラフィーと黒部ダムのモノクロ写真を使った素晴らしい装丁デザインで、お堅い経済書とは思えぬ見栄えであった。

最初に産能短大出版部から出版されたのは、まだ僕が高校生だった時で、父は新聞記者として、当時末期的状態であった公共企業体国鉄」の行く末を追っていた。その過程で、太平洋戦争直前の昭和14年に戦争遂行のために国家管理となり、敗戦後はGHQが推進した自由経済化の中で民営化=九電力体制となった電力産業の変転の歴史に目を付けた。同じく国家管理だった国鉄と重ね合わせ、対比してみようとの目論見を抱き、業界紙連載からスタートした著作だった。キーとなる人物は、戦前戦中に官僚と軍から煮え湯を飲まされ、戦後はGHQの威光を借りつつ民営化を断行した電力の鬼・松永安左エ門である。

80年代に入って土光臨調が3公社の民営化を進めると、この本は政府や経営者、学術関係者から民営化の参考書のように読まれ、出版社を白桃書房に替えて復刊された。その際に臨調メンバーの一人・加藤寛慶大教授が「私たち臨調関係者は大谷氏のこの本を貪り読み、そして論じ、自信を得て決定に踏み切ることができた。まさに名著である」と前書きの「推薦のことば」を寄せていただいている。

つまり今回が2度目の復刊で出版社は3社目ということになる。版元の吉田書店吉田社長から連絡があったのは3年前。東大・都立大名誉教授で政治学者の御厨貴先生からの復刊リクエストがあったという。御厨先生はご自身も昭和の電力史について書くつもりだったが、父のこの著作を読んで「すべて書かれてしまった」とあきらめたそうだ。

私もネット上でこの本の復刊を願っていたり、また授業に本書のコピーを使っているという大学の先生の発言を何度か目にしたことがある。駿台予備校の模試にもしばしば利用されており、都度、著作権使用料を請求してくださいという通知が届く。一度も請求したことはないが。


 御厨先生は今回の復刊に際して「大谷健さんと私 20年の清談を振り返って」という4000字ほどのエッセイを巻末に寄稿していただいた。その中で父は「あたかも吉本新喜劇に登場する爺様役者の雰囲気」と形容されている。むべなるかな。

ちなみに本書の主役となる松永安左エ門が戦時中に引きこもって茶道三昧の生活を過ごした「柳瀬山荘」は我が家から自転車で南東に10分ほどの埼玉県所沢市にあり、墓所はやはり北東に自転車で10分ちょっとの古刹・平林寺にある。そして本書の初版発行日は松永安左エ門の五十回忌にあたる。

現在私が松永や加藤寛先生ゆかりの慶應義塾の広報誌の仕事に関わっていることも、不思議な縁を感じる。お話をうかがうと吉田社長は、都立大で御厨先生門下だったという。師弟お二人には感謝の気持ちしかしかない。