プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

日本経済新聞に「成人ぜんそくに注意」を書きました。

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掲載は10月10日。現在はNIKKEI STYLEに転載され、どなたでも読めます

 

子供の病気という印象が強い気管支ぜんそくだが成人の患者も少なくない。アレルギー性が大半の子供と比べ、過労なども影響する成人は治りにくいとされる。しかし早期の治療と予防で、健康な生活は保てる。

 

style.nikkei.c

『日本史探訪』を探して

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NHK総合で1970年代に放送された「日本史探訪」をご存じだろうか? 現在でも同局では日本史をテーマにしたレギュラー番組を放映しているが、それはかなり啓蒙的な、初学者向けの入門編といったつくりになっている。しかし、この「日本史探訪」というのは、基本的な日本史の知識、教養がある人たちに向けて、歴史のエキスパートたちがひとしきり持論を展開していく番組だ。もちろん構成全体としては毎回のテーマ(「織田信長」などの人物、「新選組」などの集団、「蒙古襲来」などの事件におおむね分かれる)に即した客観情報が骨子となっているが、日本史の教科書に載っているような基本事項はあまり解説されない。もちろんNHKなので大河ドラマとの関連テーマを優先的に扱うこともあったようだ。

 

www2.nhk.or.jp

 

 番組に登場するエキスパートたちの顔ぶれといえば、海音寺潮五郎司馬遼太郎松本清張大佛次郎奈良本辰也円地文子江藤淳梅原猛扇谷正造山崎正和樋口清之池田弥三郎など、実に重厚かつそうそうたる顔ぶれである。これらの人々が1回の放送で2人ずつ出演し(ただしテーマにより1人の回もある)、対談の形でプログラムが進む。「宮本武蔵」の回では将棋の升田幸三、「空海」の回には物理学者の湯川秀樹(1人で出演)など意外な人選もあって楽しい。

歴史知識や学術的成果というよりも、歴史教養を素材にして、時空を超えた知的〝探訪〟を楽しむというのが番組の趣旨だろう。もちろん、その時々の最新の学説は紹介されるが、この番組の面白さは登場人物たちの歴史への切り込み方と言葉のやり取りを味わうところにある。

番組をまとめた書籍はなぜか角川書店から出版されており、手元に昭和46年に出た角川書店『日本史探訪』の第1巻~第3巻がある。父が買ったものだが、本棚から拝借して中学生のころ熟読した。その後、時代別に再編集され文庫化されたが、すでに品切れのようだ。ただし「松本清張」と「司馬遼太郎」の出演回をまとめた文庫は今でも入手できる。

 

松本清張の日本史探訪 (角川文庫)

松本清張の日本史探訪 (角川文庫)

  • 作者:松本 清張
  • 発売日: 1999/07/23
  • メディア: 文庫
 

 

司馬遼太郎の日本史探訪 (角川文庫)

司馬遼太郎の日本史探訪 (角川文庫)

 

 

小中学生のころはリアルタイムで番組も見ていて、司馬遼太郎の意外と歯切れがよい語りは好印象であった。和服で出演する海音寺潮五郎のちょっと頑固そうな寂びた語りはじつに明治人らしい重みを感じた。また、松本清張のちょっと斜に構えて分厚い唇から滴り落ちる滑舌の悪い言葉にも知識人の矜持を感じた。

 

織田信長」の回の冒頭での司馬遼太郎海音寺潮五郎のやりとりは以下の通りだ。

司馬 信長というのは近世の開き手なんです。近世という重い扉を信長が開いた。(中略)中世の力を打ち砕いて、まず打ち砕いてから、近世の扉をギイーと開けようとしたところに、信長の大きな意義があったと思います。

 

海音寺 ぼくは気違いだと思います。(中略)信長の弟の信行、信長の子どもの信忠、信雄、信孝、みんなアホウですよ。信長の叔父たちも凡庸人ですよ。(中略)その中で、信長一人だけがあんなふうに偉かったっていうのは、これはやっぱり血統的に見て、一種の狂い咲きだと思います。結果的に近世を開いた人であることは否定しませんが

 かみ合っているのか、いないのかよくわからないやりとりで、今ではあり得ない「気違い」などという言葉も出てくるが、なんだかこのあとの番組の続きが一体どうなるのか、わくわくするようなオープニングだ。

こうした歴史啓蒙ではない「歴史教養番組」はもうテレビでは見ることができないんだろう。地上波を見ると受験勉強レベルのクイズや知恵比べ番組は全盛のようだが、レベルの高い知的思考や教養を楽しむプログラムがEテレを含めて皆無に近いのはなんともはやである。まあ、だからスイッチを切って本を読めばいいんだが。

『保守主義とは何か 反フランス革命から現代日本まで 』雑感

保守主義とは何か 反フランス革命から現代日本まで (中公新書)

保守主義とは何か 反フランス革命から現代日本まで (中公新書)

 

ぼくは自分のことをリベラリスト的性向が強い人間だと自任している。個人の生活への国家の介入は最小限に留めたいし、「伝統」や「道徳」あるいは「社会福祉」などの美名のもとに国家の価値観を押しつけられることは断固拒否したい。言葉の本来の意味での自由主義者リベラリストとして人生を全うできればと考えている。

 

しかし、外からそうしたぼくの言動をみる人々は必ずしもリベラリストとおもってくれない。そのことは重々承知している。端的にいえばサヨク的な人々はぼくのことを政治的な保守、右寄りだと思いがちだし、逆にネトウヨ系の人々にとって僕は左寄りにみえるようだ。まあ、どうでもいいんだけど、いってみればぼくは鳥にも獣にもなれないイソップ童話のコウモリなのだ。

 

なぜそんなことになるかと言えば、理由は簡単で、日本語ではリベラル、保守といった言葉の定義がじつに曖昧であり、リベラルを自任している人、保守を自任している人ともども、これら便利な言葉に寄りかかって実に皮相的な政治観で物事や人間を観ているからだとぼくは思っている。

 

リベラルは数十年前まで「革新」と言われていたが、憲法9条や安全保障政策どころか、経済政策や社会福祉に至るまで今や守旧派といえる。庶民の味方を自任しながら、見当違いの民間療法を振りかざし、崖っぷちに人々を導くとハーメルンの笛吹き男が、現在のリベラル陣営であろう。

 

一方、保守陣営はどうか。彼らは一体何を「保守」することを使命としているのか? それが一般国民からはまったく見えない。いや、おそらく彼ら自身も見えていない。つまり裸の王様なのだ。そしてその空虚な日本の保守のあり方を本書『保守主義とは何か 〜反フランス革命から現代日本まで』がつまびらかにしてくれる。


「25歳のとき自由主義者でなかったとしたら、あなたには心がない。35歳になって保守主義者でなかったとしたら、あなたには智慧がない」とウインストン・チャーチルは言った。本書の第1〜2章では、隣国フランス革命による急進的な進歩主義に異議を唱えることで保守主義の創始となった英国の〝自由主義者エドマンド・バークにはじまり、英国保守の伝統を見出したT.S.エリオット、また20世紀の社会主義革命と集参主義への異議申し立てから自由主義に根ざした独自の保守思想を提示したフリードリヒ・ハイエクマイケル・オークショットといった英米における保守論者の系譜について、実に簡にして要を得る解説をしてくれる。保守主義はたんなる復古主義や現状維持派ではない。現実から遊離した抽象概念によって伝統や正統を破壊する急進的改革(ジャコバン派社会主義革命家)へのアンチとして生まれ、過去から現在、未来へ守るべき正統というバトンを渡す漸進的な進歩をめざす人々のことなのだ。彼らは自由主義者の側面をも持つ。まず、この鮮やかな説明に目を開かれた思いがした。個人的には下記引用部分のようなオークショットの考え方にもっとも共鳴した。

 

統治とは、何かより良き社会を追い求めるものではない。統治の本質はむしろ、多様な企てや利害をもって生きる人々の衝突を回避することにある。それぞれの個人が自らの幸福を追求しつつ、相互に折り合っていくには「精緻な儀式」が必要である。そのような「精緻な儀式」として、法や制度を提供することが統治の役割なのである。

そうだとすれば、統治者のつとめは、人々の情念に火を付けることではない。むしろ、あまりに情熱的になっている人々に、この世界には自分とは異なる他者が暮らしていることを思い起こさせることが肝心である。(本書P99

 

 

政治はあらかじめ想定された理想を実現するものではない。「自由」とは、政教分離や法の支配、私有財産や議会主義、あるいは司法の独立といった原理から生まれたのではない。むしろ自由とは、歴史の中で発展してきた、政府の力を減ずることなく権力を分散させる具体的な努力から発展してきた。個別の原理はそこから抽象化されたものであり、いわば自由の帰結である。したがって、そのような帰結だけを取り入れても、はたして自由を実現できるかどうかはわからない。

だからこそ、政治教育はまず、伝統を学び、先行する人々の行動を観察し、模倣することから始めなければならない。その意味で歴史研究は政治教育で不可欠の部分をなす。(本書106ページ)

 

 

もしこれらの考え方が保守主義の一面であるなら、ぼくはもしかしたら保守主義者なのかもしれない。まあ、一般的にはハイエク同様のリバタリアニズムと分類されるのだろう。


第3章では英国のような「伝統」が不在なかわりに、独立の経緯から「個人の自由」を拠り所にした米国で発展した保守主義を宗教原理主義リバタリアニズムネオリベラリズムネオコンの発生と進展を踏まえてつまびらかにしていく。この章における米国における保守、リベラルのフクザツに絡み合った様相の説明があまりに明快なので、米国政治に関する長年のもやもやがかなり晴れた。また、トランプ政権誕生前に書かれたこの本だが、宇野氏はまるでトランプ大統領誕生後の米国を予言したかのような言及もしている。


そして第4章では、米国以上に独自性がある日本の保守主義にも1章を割いて解説を加える。まず、日本の保守には守るべき「正統」「伝統」がない、それゆえ「制度が制度として確立せず、つねに状況化」してしまうという前提が提示される。その事についてはリベラルな丸山真男保守主義的な福田恆存の考えが一致しているのが面白い。

そのうえで伊藤博文から陸奥宗光牧野伸顕昭和天皇の回りのリベラルな元老たちから戦後の吉田茂にいたる保守の系譜をたどり、日本独自の「保守本流」とは何かを探る。著者の意見としては成熟した保守がわが国に生まれたとは考えていないようだ。

そして終章ではハイトやヒースなど最新科学を駆使して保守主義にアプローチする論者達の議論と学説が紹介され、21世紀に保守主義が果たす可能性についての示唆が提示される。過去から現在に至る保守主義を一望できる実に見事な見取り図だ。あとがきにあるように著者は保守主義者ではなく、中立的観点から「保守主義の歴史的な決算書」として本書は書かれた。

 

なお、著者の宇野氏はこのたび政府によって日本学術会議のメンバーから外された6名の内の一人だ。本来なら政権与党の強力なブレーン、アドバイザーとなれる気鋭の学者なのにもったいないことをしたという感が強い。管総理にも本書の一読を強く勧めたい。

今週の宅録「不倫はいけない!Norwegian Wood (This Bird Has Flown) Cover」

#Stayhome#宅録、今回はビートルズシタールの音はオートワウフランジャー、コンプレッサーで作りました。相変わらずミスしてもそのままごまかしています。鈴の音はMacGarageBandのプリセット音をマウスのクリックで演奏しています。

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日本経済新聞に「そろそろ ソロキャンプ」を書きました。

 先週の日本経済新聞土曜日夕刊に、自分の夏休みをネタにしてこんな記事を書きました。おやじセンス丸出しのヘッドラインは新聞社の人がつけました。まあ、良しとします。登録すれば無料で全文読めます。

 

www.nikkei.com

 

 

【追記 2020.9.25】

同じコラムが、NIKKEI STYLEに転載されました。新聞掲載時にはカットされた写真とキャプションが末尾に加えられております。

style.nikkei.com

今週のStayhome宅録 : アジるプラウド・メアリー(Agitation of Proud Mary)

お一人様宅録1テイクセッション。またもやクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルのヒット曲でやってみました。合計5トラックで録音時間合計約30分。GrageBandのヴォーカルエフェクトにMegaphone(メガホン)というのがあって、これをかけると歌が新左翼のアジ演説みたいになって面白いので「アジるプラウド・メアリー」というわけ。各パート1テイク録音なので盛大に間違えてリズムもよれてますが、まあいいじゃないですか。。

 

 

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『歩くひと 完全版 』(谷口ジロー)を読んだよ。

歩くひと 完全版

 

最近、NHKでTVドラマ化された亡くなった谷口ジロー氏の名作が、全エピソード収録&カラーページ再現の完全版として出版されたので、さっそく購入して読んでみた。いや読むと言うより、観た、といった方がふさわしい読書体験だった。

 

マンガとしては大判のB5サイズ。ページの喉元まで水平に近く開く美術書などで採用されている「コデックス装」の製本なので、見開きページの絵の緻密な描き込みまで堪能できる。作者と読者、双方への愛情に溢れた出版社の良心を感じる本となっている。カラーページの淡い味わいのために色校正にも相当な手間をかけているのだろう。
 

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作者は長年、東京都清瀬市に住んでいたので、ぼくがふだん見慣れた風景が、作品の背景としてふんだんに描き込まれている。いや、正確に言えば「見慣れていた」風景だ。既に存在しない店舗や建物がある風景、その逆にあるはずの建物がない風景。30年前の清瀬がここに描かれている。10年以上前に取り壊されてしまった清瀬市民プールで、主人公が誰もいない夜に素っ裸で泳ぐ姿に過ぎる歳月を思った。これは谷口氏の実体験なのだろうか?

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ちなみに作品によっては清瀬以外に隣の東村山や吉祥寺・井の頭公園、さら三浦半島の海岸も作品の背景、舞台となっている。いずれも20〜30年前の風景だろう。

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巻末には映画監督の是枝裕和氏が「カタクリの花」というエッセイを寄せている。是枝監督も子どもの頃から20代まで清瀬で暮らした。カタクリ清瀬でよく見られる野草で、近年は開花時期に市のイベントも行われている。そんな地味な花は、地味な多摩地区の町にピッタリであり、谷口氏や是枝監督の表現の核にある、とるにたらないもの・人に対する深い愛情に通底する。二人の表現者によるカタクリの花的表現は、文化と言語を超えてヨーロッパの人々をも魅了している。

 

是枝監督の文章を読んでいると、ある時期、谷口氏、是枝監督、そして不肖私が清瀬という狭い土地で、それぞれの思いを秘めて雌伏の時を過ごしていたという事実が胸に迫ってきた。あの時、すれ違った兄ちゃんが、おっさんが、彼らだったのかもしれない。そして雌伏のまま満足してしまっている自分も悪くないな、と思いながら、最後のページを閉じるのだ。