プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

『保守主義とは何か 反フランス革命から現代日本まで 』雑感

保守主義とは何か 反フランス革命から現代日本まで (中公新書)

保守主義とは何か 反フランス革命から現代日本まで (中公新書)

 

ぼくは自分のことをリベラリスト的性向が強い人間だと自任している。個人の生活への国家の介入は最小限に留めたいし、「伝統」や「道徳」あるいは「社会福祉」などの美名のもとに国家の価値観を押しつけられることは断固拒否したい。言葉の本来の意味での自由主義者リベラリストとして人生を全うできればと考えている。

 

しかし、外からそうしたぼくの言動をみる人々は必ずしもリベラリストとおもってくれない。そのことは重々承知している。端的にいえばサヨク的な人々はぼくのことを政治的な保守、右寄りだと思いがちだし、逆にネトウヨ系の人々にとって僕は左寄りにみえるようだ。まあ、どうでもいいんだけど、いってみればぼくは鳥にも獣にもなれないイソップ童話のコウモリなのだ。

 

なぜそんなことになるかと言えば、理由は簡単で、日本語ではリベラル、保守といった言葉の定義がじつに曖昧であり、リベラルを自任している人、保守を自任している人ともども、これら便利な言葉に寄りかかって実に皮相的な政治観で物事や人間を観ているからだとぼくは思っている。

 

リベラルは数十年前まで「革新」と言われていたが、憲法9条や安全保障政策どころか、経済政策や社会福祉に至るまで今や守旧派といえる。庶民の味方を自任しながら、見当違いの民間療法を振りかざし、崖っぷちに人々を導くとハーメルンの笛吹き男が、現在のリベラル陣営であろう。

 

一方、保守陣営はどうか。彼らは一体何を「保守」することを使命としているのか? それが一般国民からはまったく見えない。いや、おそらく彼ら自身も見えていない。つまり裸の王様なのだ。そしてその空虚な日本の保守のあり方を本書『保守主義とは何か 〜反フランス革命から現代日本まで』がつまびらかにしてくれる。


「25歳のとき自由主義者でなかったとしたら、あなたには心がない。35歳になって保守主義者でなかったとしたら、あなたには智慧がない」とウインストン・チャーチルは言った。本書の第1〜2章では、隣国フランス革命による急進的な進歩主義に異議を唱えることで保守主義の創始となった英国の〝自由主義者エドマンド・バークにはじまり、英国保守の伝統を見出したT.S.エリオット、また20世紀の社会主義革命と集参主義への異議申し立てから自由主義に根ざした独自の保守思想を提示したフリードリヒ・ハイエクマイケル・オークショットといった英米における保守論者の系譜について、実に簡にして要を得る解説をしてくれる。保守主義はたんなる復古主義や現状維持派ではない。現実から遊離した抽象概念によって伝統や正統を破壊する急進的改革(ジャコバン派社会主義革命家)へのアンチとして生まれ、過去から現在、未来へ守るべき正統というバトンを渡す漸進的な進歩をめざす人々のことなのだ。彼らは自由主義者の側面をも持つ。まず、この鮮やかな説明に目を開かれた思いがした。個人的には下記引用部分のようなオークショットの考え方にもっとも共鳴した。

 

統治とは、何かより良き社会を追い求めるものではない。統治の本質はむしろ、多様な企てや利害をもって生きる人々の衝突を回避することにある。それぞれの個人が自らの幸福を追求しつつ、相互に折り合っていくには「精緻な儀式」が必要である。そのような「精緻な儀式」として、法や制度を提供することが統治の役割なのである。

そうだとすれば、統治者のつとめは、人々の情念に火を付けることではない。むしろ、あまりに情熱的になっている人々に、この世界には自分とは異なる他者が暮らしていることを思い起こさせることが肝心である。(本書P99

 

 

政治はあらかじめ想定された理想を実現するものではない。「自由」とは、政教分離や法の支配、私有財産や議会主義、あるいは司法の独立といった原理から生まれたのではない。むしろ自由とは、歴史の中で発展してきた、政府の力を減ずることなく権力を分散させる具体的な努力から発展してきた。個別の原理はそこから抽象化されたものであり、いわば自由の帰結である。したがって、そのような帰結だけを取り入れても、はたして自由を実現できるかどうかはわからない。

だからこそ、政治教育はまず、伝統を学び、先行する人々の行動を観察し、模倣することから始めなければならない。その意味で歴史研究は政治教育で不可欠の部分をなす。(本書106ページ)

 

 

もしこれらの考え方が保守主義の一面であるなら、ぼくはもしかしたら保守主義者なのかもしれない。まあ、一般的にはハイエク同様のリバタリアニズムと分類されるのだろう。


第3章では英国のような「伝統」が不在なかわりに、独立の経緯から「個人の自由」を拠り所にした米国で発展した保守主義を宗教原理主義リバタリアニズムネオリベラリズムネオコンの発生と進展を踏まえてつまびらかにしていく。この章における米国における保守、リベラルのフクザツに絡み合った様相の説明があまりに明快なので、米国政治に関する長年のもやもやがかなり晴れた。また、トランプ政権誕生前に書かれたこの本だが、宇野氏はまるでトランプ大統領誕生後の米国を予言したかのような言及もしている。


そして第4章では、米国以上に独自性がある日本の保守主義にも1章を割いて解説を加える。まず、日本の保守には守るべき「正統」「伝統」がない、それゆえ「制度が制度として確立せず、つねに状況化」してしまうという前提が提示される。その事についてはリベラルな丸山真男保守主義的な福田恆存の考えが一致しているのが面白い。

そのうえで伊藤博文から陸奥宗光牧野伸顕昭和天皇の回りのリベラルな元老たちから戦後の吉田茂にいたる保守の系譜をたどり、日本独自の「保守本流」とは何かを探る。著者の意見としては成熟した保守がわが国に生まれたとは考えていないようだ。

そして終章ではハイトやヒースなど最新科学を駆使して保守主義にアプローチする論者達の議論と学説が紹介され、21世紀に保守主義が果たす可能性についての示唆が提示される。過去から現在に至る保守主義を一望できる実に見事な見取り図だ。あとがきにあるように著者は保守主義者ではなく、中立的観点から「保守主義の歴史的な決算書」として本書は書かれた。

 

なお、著者の宇野氏はこのたび政府によって日本学術会議のメンバーから外された6名の内の一人だ。本来なら政権与党の強力なブレーン、アドバイザーとなれる気鋭の学者なのにもったいないことをしたという感が強い。管総理にも本書の一読を強く勧めたい。