小野田さんの「子育て本」を読む。
子どもは風の子、自然の子―『ジャングルおじさん』の自然流子育て
《ぼくは、いつまでも子どもっぽいと母にいつもしかられていたほど、本能的で、よくいえば天衣無縫で、自分の好きなことしか見向きもしない自然児でした。
幼少のときはそんなふうだったぼくでも、年とともに社会のルール、大人として心得るべきことなどをそれなりに理解し、従えるようになってきました。そこで、子どもたちとは十分仲間になれると感じて、子どもたちに体当たりしていこうと決心したのです。》(小野田寛郎著『子どもは風の子、自然の子』(第一章 キャンプで会った子どもたちp147)より
小野田寛郎さんによる「子育て」本だ。昭和62年刊。内容は、キャンプを通して子どもの成長を支援する「自然塾」を立ち上げた経緯とそこでの子どもたちとも関わり、母親に「こんな子を産んだ覚えはない」と嘆かれた自分自身の少年時代の思い出、ブラジルでの開拓やルバング島でのサバイバルを通して見えてくる現代の子育ての陥穽など。おそらく口述筆記だろう。語り口は意外と柔らく、問題児だった自分の少年時代への言及にはそこはかとないユーモアもある。
すでに議論の構図がややアウト・オブ・デイトになっている箇所も少なからずあるが、ご本人はそんなことは先刻承知で言っている。
《戦後の日本は大きく変わりました。ぼくは大正末期生まれです。現代の子どもたちには「化石」と呼ばれるのだそうでs、まったく笑ってしまいます。そんな子どもたちの言動を腹立たしく思われる方もいらっしゃるようですが、ぼくは、そんな少年たちを愉快だ、よくそこまで自由に想像をめぐらせるものだと、感心しています》
(小野田寛郎著『子どもは風の子、自然の子』(第三章 もう一度考えてみませんか p189)より
前にも書いたことがあるが小野田寛郎さんは、和歌山県海南市がルーツのわが家の縁戚で、父方の祖父は子どもの頃のいたずら仲間、幼なじみであった。そんなこともあり、ルバング島からの帰国時、朝日新聞大阪本社にいた伯父が会社の命で独占手記の契約を結ぶために動いた。ところが小野田さんが選んだのは「講談社」だった。自分をルバング島から救い出した恩人の鈴木紀夫氏が同社を仲介したからだった。そこらへんの筋の通し方はいかにも小野田さんらしい。この本も講談社から出ている。写真の「謹呈」サインは伯父の弟である父へのもの。繊細さと力強さを兼ね備えたいい字だと思う。
こんなの書きました。「夏に増えるダニにご用心! 鼻炎・ぜんそく・感染症も : NIKKEI STYLE 」
村上春樹『一人称単数』を読んだよ。
村上春樹6年ぶりの短編集が出たので短編小説家としての村上ファンの私は当然発売日に買って読んだ。今回は自己言及的、自己批評的、自己パロディ的な要素が散りばめられている。端的に言えば、自分を素材に遊んでいる。短編集として出色ではないが、すっかり大家になった村上の遊びとしてファンには楽しめる作品集だ。ちなみにこの作品集タイトルは、ジョン・アップダイクの評論集「"Assorted prose"(邦題:一人称単数)」からの〝引用〟に違いない。
もうすこし自分の頭の中を整理して、この本についてまとまった考えを書こうと思ったのだが、書いた時期もモチーフも異なる8編の作品集に「整理」「まとまり」など不要あるいは不可能なのだと思い直して、以下、8編各作品について徒然なるままに雑感を記すことにする。
「石のまくらに」
『中国行きのスロウボート』の頃を思い起こさせる作風で、簡単に寝る女の子が和歌を詠む。その歌には死のイメージが張り付いている。村上自身による若き村上のパロディのようだ。この作品を冒頭に持ってきた意味をいろいろ邪推してしまう。
「クリーム」
「十八歳の時に経験した奇妙な出来事について、ぼくはある年下の友人に語っている」という文章で始まる。悪夢としか思えない体験が語られ、その中で「中心がいくつもありながら外周を持たない円」というこれまた奇妙な概念が提示される。それは「しょうもない、つまらないこと」なのか? そんな話を聞かされて困惑する年下の友人。もしかしたら読者のメタファーかな?
「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」
まるで作家自身のような一人称の語り手が大学時代に同人誌に寄稿した文章で「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」という作品を取り上げた。もちろんそんなアルバムは存在しない。しかし、文章を読んだ人は実際にそんなアルバムがあると思わされる。数十年後、筆者自身がNYの中古レコード屋で「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」を発見してしまう…村上ファン的には読みながら『風の歌を聴け』の架空のSF作家デレク・ハートフィールドに思い至るわけである。
『ウイズ・ザ・ビートルズ With the Beatles』
この作品は次の「ヤクルトスワローズ詩集」とともに雑誌掲載時に読んだ。今回の8編のうち、もっとも短編小説らしいのがこの作品だろう。神戸での高校時代をモチーフにしたフィクションで、主人公が付き合っていた女性の兄はなんとなく『風の歌を聴け』の鼠を想起させる。数十年後に渋谷で邂逅したその兄から帰化された話は…..
「『ヤクルト・スワローズ詩集』」
この作品をしかつめらしく説明したり、論じたりしてもしょうがない。読みながら野球場でプロ野球が見たいなあとずっと思ってました。
「謝肉祭(Carnaval)」
僕はこの作品がいちばん好きだな。シューマンの「謝肉祭」がきっかけで主人公はとある女性と仲良くなる。でも主人公は決してその女と寝ない。家に誘われてもだ。妻も浮気を疑わない。その理由は読んでのお楽しみ。結末もブラックユーモア的でよろしい。
「品川猿の告白」
「品川生まれの猿が群馬の温泉地で働いている」。そんな突拍子もないアイデアのみで、筋も考えずに書き始めた作品ではないかと思う。この作者、今までもその手の短編は結構あった。なかなか悪くない読後感。
「一人称単数」
「一人称単数=ぼく」がいろんなきれいな女性たちと簡単にねんごろになる小説を書く村上春樹が、そうした自分の作風に向けられる一般の悪意や揶揄を戯画化して書いた小説…だと思う。結びの言葉は「『恥を知りなさい』とその女は言った」。わろた。これを最後に持ってくるなど、春樹はんもなかなか性格よろしおますな。
「 STONE LOVE BASS ODYSSEY」を参考に" Girls On Film." を弾いてみた。
デュラン・デュランのベースプレイヤーであるジョン・テイラーが各曲のベースラインを自ら弾きながら、奏法解説と音楽的経歴について語るYouTubeのStayhome企画「 STONE LOVE BASS ODYSSEY」を楽しみにしている。現地時間の毎週水曜日に新しい回が公開されている。まもなく公開される6回目は007映画のサントラになった "A View to a Kill."⠀らしい。
毎回楽しみに見ているんだけど、彼らがデビュー時からどれだけ音楽に対して、どん欲かつ誠実に取り組んできたがとてもよく理解できる好プログラムでもある。アイドルバンドと目されていた彼らが、(一時の低迷期があったとはいえ)現在まで第一線で活躍できるのは、こうしたスタンスによる者だと思う。
で、見ていると自分でも弾きたくなるので、" Girls On Film." をちょっと弾いてみたぞ。簡単そうで上手に弾くのは難しいことを実感。
『ジヴェルニーの食卓』(原田マハ)を読んだ。
このところ、ずっと「重め」のフィクションを数冊併読している状況の中、気分転換に軽く読める本を求めて、積ん読の中から取りだしたのがこの1冊。マティス、ドガ、セザンヌ、モネ。4名の印象派の巨匠たちを、彼らと深く関わる女性の目を通して描く連作短編集だ。美術をモチーフとした作品を多く発表するベストセラー作家の著者だが、本作に関して「小説でアートを真正面から書くのは初めてのことで、大きなチャレンジでした」と語っている。2013年度の直木賞候補作でもある。
生来の鑑賞眼を備えた家政婦の少女と晩年のマティスが交わしたあたたかい心の交流(「うつくしい墓」)。印象派としての“戦友”である女性画家が見たドガの表現への執念とパリの街の光と影(「エトワール」)。画商タンギーの娘がセザンヌに送った借金返済要請の書簡に仮託された愛情表現(「タンギー爺さん」)。貧困から栄光までを共に過ごした後妻の娘(また息子の嫁)から見たモネの真実(「ジヴェルニーの食卓」)。……4つの物語それぞれに凝らした趣向がとても楽しく、心躍らされる。
著者の国内外でのキュレーターとしてのキャリアに裏付けられた見識と、人間心理をあたかも印象派絵画のように鮮やかに表現できる確かな文章力があいまって、フィクションとわかっていても画家たちの息づかいに深く感じ入ることしばし。巻を措く能わず、という慣用句がぴったりな1冊だ。
この作品と並行してそれぞれの巨匠の画集や同じ著者のエッセイ集『モネのあしあと 私の印象派鑑賞術 』(幻冬舎新書) を併読すると、いっそう読後感が深まるだろう。
『豊饒の海』Revisited
新型コロナ感染拡大が深刻化しつつあった3月上旬から再読を始めた『豊饒の海』。学生時代は1〜2巻を文庫で買って、残りを図書館で借りて読んだらしく、3〜4巻は手元にないので買うことにした。電子本でもいいのだが、どうせならと思って紙の本にした。かつては作品内容に沿ったシンボリックなイラストがあしらわれていた装丁はタイポグラフィー中心のデザインに変わっていた。
今は3巻目の『暁の寺』を読み進めているのだが、この4部作のハイライトはやはり2巻目の『奔馬』だろう。若くて(or 稚拙で)純粋な(or 単細胞な)テロリストの挫折の物語。主人公は明治初期の士族反乱の一つ「神風連の乱」に傾倒し、昭和の世にその再現をめざす。そう、つまり三島自身のその先を予感させる作品だ。主人公の単細胞さは三島自身とまったく異なるキャラクターだが、作者の並々ならぬ思い入れで彼の人となりが尋常ではない熱気を込めて描写されている。その思い入れの強さのあまり、三島が2カ所で創作上の決定的なミスを冒していることを指摘したのは橋本治だ。私は初読時にはまったく気付かなかった。それも三島による日本語を知り尽くしたレトリックのなせる技だろう。さすが橋本治だ。そして恐るべし三島の日本語力。若き筒井康隆は三島の『禁色』を読んで自分の才能のなさに絶望したという。