プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

村上春樹『一人称単数』を読んだよ。

 

 

一人称単数 (文春e-book)

 

一人称単数 (文春e-book)

 

村上春樹6年ぶりの短編集が出たので短編小説家としての村上ファンの私は当然発売日に買って読んだ。今回は自己言及的、自己批評的、自己パロディ的な要素が散りばめられている。端的に言えば、自分を素材に遊んでいる。短編集として出色ではないが、すっかり大家になった村上の遊びとしてファンには楽しめる作品集だ。ちなみにこの作品集タイトルは、ジョン・アップダイクの評論集「"Assorted prose"(邦題:一人称単数)」からの〝引用〟に違いない。

 

もうすこし自分の頭の中を整理して、この本についてまとまった考えを書こうと思ったのだが、書いた時期もモチーフも異なる8編の作品集に「整理」「まとまり」など不要あるいは不可能なのだと思い直して、以下、8編各作品について徒然なるままに雑感を記すことにする。

 

 

「石のまくらに」

『中国行きのスロウボート』の頃を思い起こさせる作風で、簡単に寝る女の子が和歌を詠む。その歌には死のイメージが張り付いている。村上自身による若き村上のパロディのようだ。この作品を冒頭に持ってきた意味をいろいろ邪推してしまう。

 

「クリーム」

「十八歳の時に経験した奇妙な出来事について、ぼくはある年下の友人に語っている」という文章で始まる。悪夢としか思えない体験が語られ、その中で「中心がいくつもありながら外周を持たない円」というこれまた奇妙な概念が提示される。それは「しょうもない、つまらないこと」なのか? そんな話を聞かされて困惑する年下の友人。もしかしたら読者のメタファーかな?

 

 

チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ

まるで作家自身のような一人称の語り手が大学時代に同人誌に寄稿した文章で「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」という作品を取り上げた。もちろんそんなアルバムは存在しない。しかし、文章を読んだ人は実際にそんなアルバムがあると思わされる。数十年後、筆者自身がNYの中古レコード屋で「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」を発見してしまう…村上ファン的には読みながら『風の歌を聴け』の架空のSF作家デレク・ハートフィールドに思い至るわけである。

 

ウイズザ・ビートルズ With the Beatles

この作品は次の「ヤクルトスワローズ詩集」とともに雑誌掲載時に読んだ。今回の8編のうち、もっとも短編小説らしいのがこの作品だろう。神戸での高校時代をモチーフにしたフィクションで、主人公が付き合っていた女性の兄はなんとなく『風の歌を聴け』の鼠を想起させる。数十年後に渋谷で邂逅したその兄から帰化された話は…..

 

「『ヤクルト・スワローズ詩集』」

この作品をしかつめらしく説明したり、論じたりしてもしょうがない。読みながら野球場でプロ野球が見たいなあとずっと思ってました。

 

「謝肉祭(Carnaval)」

僕はこの作品がいちばん好きだな。シューマンの「謝肉祭」がきっかけで主人公はとある女性と仲良くなる。でも主人公は決してその女と寝ない。家に誘われてもだ。妻も浮気を疑わない。その理由は読んでのお楽しみ。結末もブラックユーモア的でよろしい。

 

品川猿の告白」

「品川生まれの猿が群馬の温泉地で働いている」。そんな突拍子もないアイデアのみで、筋も考えずに書き始めた作品ではないかと思う。この作者、今までもその手の短編は結構あった。なかなか悪くない読後感。

 

「一人称単数」


「一人称単数=ぼく」がいろんなきれいな女性たちと簡単にねんごろになる小説を書く村上春樹が、そうした自分の作風に向けられる一般の悪意や揶揄を戯画化して書いた小説…だと思う。結びの言葉は「『恥を知りなさい』とその女は言った」。わろた。これを最後に持ってくるなど、春樹はんもなかなか性格よろしおますな。