Stay Home Sesssion Vol.1
家に居る時間が長くなったのでこれまでなかなかいじれないでいた楽器に触れる機会が増えた。
■ステッペンウルフ「ワイルドで行こう!」
こういう若い頃に覚えた曲は楽器を手にするとだいたい思い出せる。でも、最近覚えた曲はすぐ忘れてしまう。つらい。
まさか限りない悲しみの気持ちでこの曲を弾くことになるとは.....つらい。
上質な道具で心豊かに 釣りやゲームに生きる職人技:日本経済新聞
ファンサービスとしてのTHE BEATLES 『 From Me To You』
今でこそビートルズはポップミュージックの巨人だし、ロック音楽の開祖であり、ジョン・レノンは愛と平和の詩人だが、そもそも彼らはリバプールからポッと出のアイドルグループだったのだ。この曲など「ファンの女の子たち、僕たちのレコードを買ってくれてありがとう。僕(たち)からきみへ愛を贈ります」っていう露骨なファンサービスだ。「抱きしめたい」「プリーズ・プリーズ・ミー」なども同じで、AKBやジャニーズのファンサービスとコンセプトとしてはそれほど変わらない。しかし、ビートルズはあくまでそれを音楽的に実現した。彼らとしては実は女の子なんてどうでも良くて、音楽こそがすべてだったに違いない。その一徹さ、いわばオタクぶりが世界を変えたのである。
コロナ禍の蟄居生活の中で積んでおいた神吉拓郎『私生活』を読む。
2月下旬に有楽町・交通会館の三省堂で見つけて買っておいた神吉拓郎『私生活』。1983年第90回直木賞受賞を受賞した短編集で、以前は文春文庫で出ていたが、今年2月に小学館P+D BOOKSとしてペーパーバックでも刊行された。文庫より字も大きいので老眼中高年にはありがたいことである。
神吉拓郎はもともと三木鶏郎門下の放送作家からスタートしており、市井のドラマをしみじみと描くその手法は、昭和のテレビドラマにも通じる。文字量としてはショートショートに近い各編、それぞれ異なる余韻を残す。こうした短編小説を読むことが(おそらく書かれることも)少なくなっていたので、読後感はとても新鮮である。どの一文を除いても作品世界は成立しない。鍛え抜かれたボクサーの身体のような贅肉を感じさせない文章に身の引き締まる思いがした。
神吉さんはどうやら釣りが好きだったらしく、この短編集にも『釣り場』という作品が収録されている。湖での鯉釣りの話で、その冒頭部はこうだ。
「穴場なんてものはね、そうあるもんじゃないです」
その老人は、そういって、言葉を切った。
鼻の穴から、煙草の煙の残りが、薄く漂い出て、すぐにどこかへ消えてしまった。
見事な導入である。老人が吐き出した体臭交じりの煙の臭いさえ漂ってきそうだ。穴場なんて自分がそう思っているだけで、実はみんながその穴場を共有しており、気がついていないだけだ…そんなふうに話が進む。私も釣り仲間から多くの〝穴場〟を教えられたことがあるが、ことごとく〝穴場〟などではなく、みんなの釣り場であった。
閑話休題。この作品はやがてミステリの色合いを帯びる。そして、〝真実〟を浮かび上がらせるエンディングの余韻。その時、「穴場なんてものはね、そうあるもんじゃないです」で始まる冒頭のシーンが壊れた映写機のように読者の頭の中をグルグルと駆け巡るのだ。短編小説の愉悦とはこういうことを言うのだろう。
神吉拓郎には『ブラックバス』という作品集もあり、表題作は終戦直前、疎開先の箱根で釣ったブラックバスを釣る少年の心の機微を描いた一編らしい(未読)。読んだ人の話だと、その中にブラックバスを放流したのは祖父の知人だという記述があるということで、これは作者の実体験にも基づいているのかもしれない。赤星鉄馬という実業家が大正14(1925)年、箱根・芦ノ湖に放流したのが、わが国におけるブラックバス移植の初まり。神吉さんの祖父はその友人だったということだろうか。ちなみに父親はナチュラルライフの聖典ともいえるヘンリ-・ソロー『森の生活』(岩波文庫版)を翻訳した神吉三郎である。
そういえばつい最近、あるFBフレンドの方が赤星鉄馬の血縁らしいとわかって驚いたばかりだった。コロナ禍の蟄居生活の中で浮き世のよしなしごとが不思議な縁で結ばれていくのをぼんやりと眺めている。
ペーパーバック(P)でも、電子本(D)でも読める。
『終わりなき日常を生きろ』REVISITED 〜新型コロナウイルス・パンデミックに思う
終わりなき日常を生きろ ──オウム完全克服マニュアル (ちくま文庫)
オウム事件直後に出版された『終わりなき日常を生きろ』は、1990年代に生きる「若者」の一つの断面を描いた社会学者・宮台真司の出世作だ。
輝ける未来もハルマゲドンも来ることはない、ただ「終わりなき日常」というべきのっぺりとした日々が続くだけ……戦後日本の通奏低音としての「終わりなき日常」はアプレゲール、団塊の世代を経て半世紀近く後の世代へと受け継がれていった。キーワードは東西冷戦、高度経済成長、全共闘、しらけ、サブカルチャー、新人類、オタク、そして新興宗教、ブルセラ、援助交際……文明の大きな物語はリアリティーを失い、より個人的な小さな物語へと時代は急速に収斂していった。三島由紀夫『青の時代』から『終わりなき日常を生きろ』までの距離は存外に短い。
日本でまずそんな「終わりなき日常」に揺さぶりをかけたのが阪神淡路大震災&オウム真理教事件だった。1995年、今から25年前のことだ。
さらに2001年の同時多発テロ以降のテロとの戦いは、湾岸戦争以来のイスラム世界と欧米社会との不協和音に日本を本格的に巻き込むことになった。東西冷戦構造と共に崩壊したはずの大きな物語が日本列島にくっきりとした陰影を落とし始める。北朝鮮の核化はその幕間喜劇を見るようだった。
そして2011年の東日本大震災&福島第一原発事故。私たちに「日常の終わり」そのものを鋭く付きつけることになった。
今年の新型コロナウイルスのパンデミックは、より(語弊はあるが)〝カジュアル〟な形で私たちの生活の中の「日常の終わり」を炙り出すことになった。
不安に押しつぶされて悲鳴のような雑言を喚き立てる人。敢えて極端な話をして自分と他人の距離を測ろうとじたばたしている人。政府やWHOや中国などへの敵視で平常心を保つ人……先月来、SNS越しに見えてくる崩れた日常の一つ一つはつらく、痛々しく、しかも滑稽だ。
「ひとは大人になっていく過程でそこそこの自分とそこそこの世界に耐えていくことができる。それを阻む装置を、観念であれモノであれ制度であれ、徹底的に破壊しつくすことが、僕の目的なの。」(『終わりなき日常を生きろ』巻末対談)
今回のコロナ禍には、まちがいなく「終息」が来る。しかし、それですべてが元通りになるとは限らない。「そこそこの自分」が安住できる「そこそこの世界」すら確保できない日常を私たちは生きていかなくてはならない。残念ながら、今や宮台氏の破壊活動は若干見当違いの蟷螂の斧でしかない。ほんとうに残念ながら。
日経に「隠れた個性派スイーツ探せ かわいくて春にぴったり」書きました。
緊急事態宣言下の厳しさの中、せめてお菓子の甘さを楽しみたい,,,,
新聞掲載は3月28日(土)ですが、現在は下記NIKKEI STYLEでどなたでも読むことができます。