『豊饒の海』Revisited
新型コロナ感染拡大が深刻化しつつあった3月上旬から再読を始めた『豊饒の海』。学生時代は1〜2巻を文庫で買って、残りを図書館で借りて読んだらしく、3〜4巻は手元にないので買うことにした。電子本でもいいのだが、どうせならと思って紙の本にした。かつては作品内容に沿ったシンボリックなイラストがあしらわれていた装丁はタイポグラフィー中心のデザインに変わっていた。
今は3巻目の『暁の寺』を読み進めているのだが、この4部作のハイライトはやはり2巻目の『奔馬』だろう。若くて(or 稚拙で)純粋な(or 単細胞な)テロリストの挫折の物語。主人公は明治初期の士族反乱の一つ「神風連の乱」に傾倒し、昭和の世にその再現をめざす。そう、つまり三島自身のその先を予感させる作品だ。主人公の単細胞さは三島自身とまったく異なるキャラクターだが、作者の並々ならぬ思い入れで彼の人となりが尋常ではない熱気を込めて描写されている。その思い入れの強さのあまり、三島が2カ所で創作上の決定的なミスを冒していることを指摘したのは橋本治だ。私は初読時にはまったく気付かなかった。それも三島による日本語を知り尽くしたレトリックのなせる技だろう。さすが橋本治だ。そして恐るべし三島の日本語力。若き筒井康隆は三島の『禁色』を読んで自分の才能のなさに絶望したという。