プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

失われた名盤③ 『Real Moral Fibre』VENUS IN FURS

Real Moral Fibre

Real Moral Fibre

 

VENUS IN FURSは英国・サセックス出身のポストパンク世代のグループで、4ピースバンドを経て1985年にデュオ編成でレコードデビュー。実質的にはコンポーザーでマルチインストゥルメンタリストのTimesと名乗る人物のソロプロジェクトと考えても良いだろう。グループ名はマゾッホの作品名であり、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの曲名でもあるが、まあ、どちらでもよろしい感じ。

 

サウンドはヴェルヴェット・アンダーグラウンドジョイ・ディヴィジョンの系譜を継ぐもの。「Mishima's Sepukko」(三島の切腹...だがセップコという綴りになってしまっている)というシンセと効果音的サウンドで構成された奇妙な曲や鬱なヴォーカルで歌われる「New Terrorist」(私がいちばん好きな彼らの曲)など、政治性を暗示させる曲が並ぶが、どことなくスウィートネスな感触もあり、あまりとんがった印象はない。「Love Lies」(12"シングルカット)などはじつにポップでスミス的でもある。

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アルバムの全体的な印象は素人っぽいリバーブ&ディストーションギターとセンスで勝負のシンセサウンドの融合するエレクトリック・ゴス的なサウンドで、ヴォーカルは歌といういり呟きや呻きに近い。買ってしばらくは、没入するように聞き狂った覚えがある。思えば私の人生暗かった。

 

この手のバンドはだいたい今はなき西新宿のUKエジソンで見つけたものだ。そしてこのバンドに関してはこれ以上のインフォメーションは知らない。わかっているだけのディスコグラフィーは以下の通り。今回取り上げた『Real Moral Fibre』が一応代表作であるようで、英語レビューを見渡しても評価が高い。僕はレコードしか持っていないし、AMAZONにもLPしか出品されていないが、一応CD化されたこともあるようだ。

 

おそらく私と同年配であろうTimes氏は今、何をしているのだろうか?

 

〈VENUS IN FURSディスコグラフィー

Momento Mori (12") 1985 

on Backs Records - NCH105 

Picture Disc 

 

Love Lies (12") 1985 

on Backs Records - NCH107 

 

Real Moral Fibre (LP) 1986 

on Backs Records - NCHLP012 

 

Almost (12") 1988 

on Backs Records - NCH116 

 

Megalomania (LP) 1989 

on Backs Records - NCHLP016 

 

The Speed Of A Pun (LP) 1990 

on Backs Records - NCHLP017 


『へうげもの』、乙に完結す

へうげもの(25) (モーニングコミックス)

へうげもの』、乙に完結す。

古田織部という人物にスポットを当てた戦国大絵巻もついに25巻で完結した。

いやはや乙な〝最期〟であった。

歴史フィクションは、最低限の史実の上でどれだけ遊べるかが勝負なのだが、
その点では極上の作品となった。

章タイトルは洋楽や歌謡曲などのパロディで、
作品中にも「ナボナの王選手」などさまざまなTVコマーシャルのパロディが
ストーリーの流れの中に挟み込まれていく。
戦国武将たちの顔やキャラクターも現代の有名人を参照にしており、
加藤清正具志堅用高は大笑いだし、細川幽斎が子孫である「細川護煕」なのも唸った。

このマンガの序盤最大の事件である本能寺の変は、
フィクションで描かれた本能寺の変史上最も途轍もないものと断言できる!
これには驚いたし、笑ったし、そして泣いた。


そして中盤のハイライトであった利休の切腹の凄まじさ。漫画史上に燦然と屹立する名シーンであろう。

いやはや楽しませてもらいました。作者と古田織部に、「ほんとうに乙かれさまでした!」と言いたい気分です。

『遠い山なみの光』(カズオ・イシグロ)雑感 〜幻想の「日本」を描く企みとメタ日本人的会話表現の妙

 

遠い山なみの光 (ハヤカワepi文庫)

イシグロの長編としては第1作。未読だったので読んでみた。訳者の小野寺氏は先日亡くなったばかりだ。

物語は現在と過去を往き来しながら、淡々と進む。その推進力となっているのが「会話」だ。この作品で語られる過去は戦後まもなくの長崎。原爆の余韻もそこここに残っている。そこに住む人々の会話は、正確な意味での日本人の会話ではない。外国人イシグロのイマジネーションが作り上げたメタ日本人の会話なのだ。もともと英語で書かれたその会話を日本語の翻訳文で読むという体験は考えてみればかなり倒錯的だ。

この作品に登場する長崎の日本人たちはイシグロの両親と同世代だろう(訳者の小野寺氏も)。両親というフィルターの向こうに霧のようにたちのぼる日本の生活を丹念に描くイシグロ。それは不思議な(あるいは不自然な)トーンの映像となって読者のアタマに刻み込まれる。最後の締めとなる仕掛けというにはさりげない作者の企みによって、なんともいえない読後感を読み手に残す。若書きといえる作品だが、その後のイシグロのエッセンスはここにほとんどあるのではないか?

作者の企みに関しては、翻訳より原文で読む方が理解しやすいようだ。

●参考:「より深い理解と感動へ、英語で読むカズオ・イシグロ」(Yomiuri Online 2017年10月23日)

確かにそうかもしれない。ただ、この翻訳がきわめて優れていることは強く言っておきたいと思う。

あれから23年。

ヒースクリフ! 私よ、キャシーが帰ってきたわ。ああ、とても寒い。この窓から中にいれてちょうだい。

ケイト・ブッシュ嵐が丘』拙訳)

 私は久しぶり(10年とか15年のスパン)にあった人から「ぜんぜん変わってないねえ」と言われるタイプの人間なのだが、自分としてはあるときを契機に少なくとも内側は大きく変わったと思っている。それが1995年、年頭に阪神淡路大震災地下鉄サリン事件が立て続けに起こったあの年だ。一言で言うとイデアリストからリアリストになった。もっと噛み砕くと「守り」に入った。翌年、初めての子どもができたので、守りはいっそう強化される。守りというと内向きの姿勢とも感じられるが、自分以外の誰かを守るために死ぬこともアリかな、と思えるようになった、ということでもある。少なくとも1995年以前に自分がそんなことを考える様になるとは想像すらできなかった。そしてまた、いざという時のために簡単に死ねないな、とも。それまではいつ死んでも、ま、いいか、であった。そういえば初めて携帯電話を持つようになったのもその年だった。今でも私は携帯電話・スマートフォンは、あくまでも「非常用」だと思っているフシがある。

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『兼好法師 - 徒然草に記されなかった真実 (中公新書)』を読んだよ。

兼好法師 - 徒然草に記されなかった真実 (中公新書)

兼好法師 - 徒然草に記されなかった真実 (中公新書)

 

中公新書の中世モノの充実は歴史ファンとして喜ばしい限り。いつも言っているのだが、日本史で一番おもろいのは、やはり鎌倉~室町期だ。個人的には現在の日本人のメンタリティみたいなものはこの時代に形作られたと思う。その例証の一つが「徒然草」という作品で、本書は作者である兼好法師の正体を通説の検証を通して薄皮を剥いでいくような手付きで明らかにしていく。

家柄に箔を付けたい室町時代吉田兼倶という人物が家系図捏造によって歴史を大きく歪曲したことまでを白日の下にさらし、激動の時代を巧みに権力者を乗り換えながら要領よく生き延びたちょっと俗っぽい兼好像が浮かび上がってくる。僕はそう言う兼好にとても親しみを感じる。

ツンデレな著者の文章もなかなか味わいがあり、小気味も感じられ、途中ちょっと退屈なパートもあるのだが、楽しく読了することができた。

冥府の兼好法師も、もし本書を読むことができれば喝采をおくったのではないか?

小澤征爾さんと、音楽について話をする (新潮文庫)  雑感

 

小澤征爾さんと、音楽について話をする (新潮文庫)

単行本発売時から気になっていた本書、書店で文庫を見かけたのでようやく手に取ってみた。

 

タイトル通り村上春樹小澤征爾の対談集である。小澤の師匠カラヤンをはじめグレン・グールドバーンスタインといった深く関わり合った音楽の巨人たち、またベルリン、ウィーン、ボストン、ニューヨーク、そしてサイトウ・キネンなどのオーケストラについて、ベートーベン、ブラームスマーラーなどの作品とともに語られる。

対談の時期は2010年11月から2011年7月にかけてで、この時期、小澤は大がかりな食道癌切除手術からの回復期にあった。それゆえに対談する時間が持てたとも言えるわけだが、いまだ完全に回復しているとは言えないマエストロへの村上の気遣いも随所に感じることができる。対談の中身にはほとんど出てこないが、この期間に起こった東日本大震災が、ふたりの会話に微妙な陰影を投げかけているかもしれない。

 

 

本書を読んで感銘を受けるのは、小澤征爾のマエストロらしからぬあけっぴろげさと「自分は音楽の素人」と言う村上春樹の音楽の聞き手としての真摯さと耳の確かさである。どちらもかねがね感じていたことだけれど、文字として定着したモノを読むとあらためて圧倒される。特に聞き手の村上の音楽知識の深さとその知識を音楽そのものに滑らかにつなげる言葉を紡ぎ出す才能にはホレボレとする。僕はふたりのおかげで長年モヤモヤし続けてきたマーラーの音楽を深く楽しむための大きなヒントをもらったと感じている。

 

ちなみに小澤征爾は「レコード・マニア」が大嫌いだという。クラシックに限らず、音楽マニアの戯言とか音楽評論家の印象批評に辟易している人は少なくないと思うが、そういう人たちがこの本を読むと音楽を感じとる幸せとそれを言語化する喜びについての新たな知見が得られるに違いない。あらゆる日本の音楽評論家と称する人々は、ジャンルにかかわらず本書を熟読玩味すべきだろう。

 

ジャンルにかかわらずと言えば、小澤征爾がシカゴで開催される音楽祭の音楽監督を務めていたとき、治安の良くないライブハウスまで自ら運転して出かけ本場シカゴブルーズを浴びるように聴いていたエピソードはじつに興味深かった。

 

文庫化に際して、単行本には収録されていない「厚木からの長い道のり」という村上の後日談的エッセイが追加収録された。このエッセイにはジャズピアニストの大西順子の引退宣言から、長野県松本市の音楽イベントで小澤征爾(及びサイトウ・キネン・オーケストラ)と「ラプソディー・イン・ブルー」を演奏し〝復活〟するまでの経緯が書かれている。大西順子とマエストロをつないだのは村上である。海外のジャズミュージシャンかから大きな評価を得ていながら、日本の音楽状況とビジネスに苦しみ引退を決意した大西が、本厚木の小さなライブハウスでラストコンサートを開催した。スシ詰め状態のその客席には村上と小澤の姿もあった。最後に完全引退を客に告げるステージの大西に向かって、客席の老いたマエストロは突然立ち上がって「おれは反対だ!」と叫ぶ。突然の事態に仰天する観客。マエストロはそのまま大西順子とサシで引退撤回の話し合いに入る。大西も相当頑固者だったようで、話し合いは日を改めて何回も続いたという。結局、1回だけイベントで「ラプソディー・イン・ブルー」を共演すると言うことになり、クラシックとジャズの垣根(特にリズム面での)を乗り越える困難を経てコンサートを成功させた。その後しばらくして、ビル清掃のアルバイトで生計を立てていたという天才女性ピアニストが、再びステージとレコーディングスタジオに復帰したのはみなさまご存じの通りだ。

 

本書を一度読み終えた後、僕はなんどもこの「厚木からの長い道のり」だけを読み返した。そしてマエストロが「おれは反対だ!」と叫ぶくだりで、胸と目頭が熱くなる。
クラシック、ジャズ、ブルーズ、ポップス、演歌などに関係なく、音楽が人にとってどれだけかけがえのないものか、僕は熱く率直なこのマエストロに教えられた気がしている。
「厚木からの長い道のり」が追加収録されたことで本書は、単行本よりさらに価値が増したと思える。いずれにせよ心から音楽を愛するすべての人に勧めたい1冊だ。

忙しいと釣りについて考えたくなる。

 

フライフィッシング―100の戦術

 忙しいと釣りについて考えたくなる。なぜだろうと思う。夢の中にも釣りが出てくる。釣れなくて苦しい。うんうん唸っていると目が覚めるのだ。

 

フライフィッシングを始めた頃、何気に洋書アメリカ)の入門書を買ってみた。ちょうど今みたいな繁忙期に仕事場を抜け出して、今は亡き銀座イエナ書店で買ったんだった。案の定、テクニカルな説明は、日本の入門書に比べて、ひじょうに丁寧に書かれており、たとえば輪っかになった状態で販売されているナイロンリーダーを絡みなく解く方法までも図解入りで書かれていて唸った(アメリカ人の不器用さゆえ、ともいえるわけだが)。

日本のその類いの本の多くは、技術を単に技術として書き表すことにテレがあり、文化・思想的なニュアンスを漂わすことに腐心している風でもあり、それはそれで気持ちはわからなくはないのだが、目的をはき違えていることは確かだろう。歪んだ(そして底の浅い)ディレッタンティズムみたいなものがそこにはあると思う。そのせいで入門者は壁を感じることになるのだが、ベテランたちは良かれと思ってやっているのでそのことに気付かない(ふりをしている)。そうしたフライフィッシング愛好家のメンタリティーの考察については以前少しだけ書いた

 

そもそも文化とは、細かいテクニカルなディティールの集積であり、それをしっかり書かない限り、意味をなさない。日本の入門書・解説書で納得いったのは、故西山徹さんのものだった。この人にもテレはあるのだが、それを処理するプロ根性があった。

フライフィッシング―100の戦術

 

一方、そのアメリカの入門書は釣り人同士のマナー・礼儀にまるまる一章を割いており、日本人の場合だと、たとえば「同じ趣味の人間同士、仲良くやろう。挨拶をしよう」程度で済まされる部分で、こう来る──挨拶はしたほうがいい。だが、釣り場で遭う人にはそれぞれ事情がある。ひとりになりたくて釣りにくる人も多いのだ。挨拶をして無視されても不愉快になるな──その通りである。

 

で、そのアメリカの入門書だが、どこにいったのか見つからない。もう一度、釣り人として初心に戻りたいので読み直したいのだが、わが家の中で煙のように消え去ってしまった。甘えるな...ということだろうか?