プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

『遠い山なみの光』(カズオ・イシグロ)雑感 〜幻想の「日本」を描く企みとメタ日本人的会話表現の妙

 

遠い山なみの光 (ハヤカワepi文庫)

イシグロの長編としては第1作。未読だったので読んでみた。訳者の小野寺氏は先日亡くなったばかりだ。

物語は現在と過去を往き来しながら、淡々と進む。その推進力となっているのが「会話」だ。この作品で語られる過去は戦後まもなくの長崎。原爆の余韻もそこここに残っている。そこに住む人々の会話は、正確な意味での日本人の会話ではない。外国人イシグロのイマジネーションが作り上げたメタ日本人の会話なのだ。もともと英語で書かれたその会話を日本語の翻訳文で読むという体験は考えてみればかなり倒錯的だ。

この作品に登場する長崎の日本人たちはイシグロの両親と同世代だろう(訳者の小野寺氏も)。両親というフィルターの向こうに霧のようにたちのぼる日本の生活を丹念に描くイシグロ。それは不思議な(あるいは不自然な)トーンの映像となって読者のアタマに刻み込まれる。最後の締めとなる仕掛けというにはさりげない作者の企みによって、なんともいえない読後感を読み手に残す。若書きといえる作品だが、その後のイシグロのエッセンスはここにほとんどあるのではないか?

作者の企みに関しては、翻訳より原文で読む方が理解しやすいようだ。

●参考:「より深い理解と感動へ、英語で読むカズオ・イシグロ」(Yomiuri Online 2017年10月23日)

確かにそうかもしれない。ただ、この翻訳がきわめて優れていることは強く言っておきたいと思う。