プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

忙しいと釣りについて考えたくなる。

 

フライフィッシング―100の戦術

 忙しいと釣りについて考えたくなる。なぜだろうと思う。夢の中にも釣りが出てくる。釣れなくて苦しい。うんうん唸っていると目が覚めるのだ。

 

フライフィッシングを始めた頃、何気に洋書アメリカ)の入門書を買ってみた。ちょうど今みたいな繁忙期に仕事場を抜け出して、今は亡き銀座イエナ書店で買ったんだった。案の定、テクニカルな説明は、日本の入門書に比べて、ひじょうに丁寧に書かれており、たとえば輪っかになった状態で販売されているナイロンリーダーを絡みなく解く方法までも図解入りで書かれていて唸った(アメリカ人の不器用さゆえ、ともいえるわけだが)。

日本のその類いの本の多くは、技術を単に技術として書き表すことにテレがあり、文化・思想的なニュアンスを漂わすことに腐心している風でもあり、それはそれで気持ちはわからなくはないのだが、目的をはき違えていることは確かだろう。歪んだ(そして底の浅い)ディレッタンティズムみたいなものがそこにはあると思う。そのせいで入門者は壁を感じることになるのだが、ベテランたちは良かれと思ってやっているのでそのことに気付かない(ふりをしている)。そうしたフライフィッシング愛好家のメンタリティーの考察については以前少しだけ書いた

 

そもそも文化とは、細かいテクニカルなディティールの集積であり、それをしっかり書かない限り、意味をなさない。日本の入門書・解説書で納得いったのは、故西山徹さんのものだった。この人にもテレはあるのだが、それを処理するプロ根性があった。

フライフィッシング―100の戦術

 

一方、そのアメリカの入門書は釣り人同士のマナー・礼儀にまるまる一章を割いており、日本人の場合だと、たとえば「同じ趣味の人間同士、仲良くやろう。挨拶をしよう」程度で済まされる部分で、こう来る──挨拶はしたほうがいい。だが、釣り場で遭う人にはそれぞれ事情がある。ひとりになりたくて釣りにくる人も多いのだ。挨拶をして無視されても不愉快になるな──その通りである。

 

で、そのアメリカの入門書だが、どこにいったのか見つからない。もう一度、釣り人として初心に戻りたいので読み直したいのだが、わが家の中で煙のように消え去ってしまった。甘えるな...ということだろうか?