プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

詩人のなりそこね

 

子どもの頃からなりたいものはたくさんあった。しかし、どれも非現実的な職業ばかりだったし、移り気だったので何かを目指して頑張るという経験には乏しかった。

 

幼稚園年長組だった頃、お絵かき用のスケッチブックを買ってもらった。表紙にはヨーロッパの古城を写生するベレー帽の画家の姿を円形で撮影した写真が使われていた。かっこいいと思った。「絵描きさんになりたい」。近くに居た祖母に言ったら、一言「絵描きなんて食えないからやめとき」。祖母は職人肌で趣味人の祖父に苦労をさせられた大阪商人であった。

小学校から中学生にかけてはずっと科学者になることが夢だった。影響を受けたのは天文学ニュートンコペルニクスライプニッツハーシェル、それと昆虫研究のファーブルだった。そのほか中学生から趣味でラジオ工作や無線通信の勉強を始めたので、自分の将来はこうした理系分野だと思っていた。

しかし、現在の自分の仕事につながる予兆はあった。中学では演劇部に所属し、オリジナル脚本も書いた。中学3年生の英語の授業で「I Want to be a ●●●」と自分がなりたい職業を答えなさいという課題で、とっさに「I Want to be a writer」と答えたのは「天文学者」「昆虫学者」を英語でどう言うのか思いつかなかったからだ。今から考えると「Scientist」でもよかったはずなので「writer」という職業に若干の関心が芽生えていたのだろう。その時「まあ、大谷くんの書いたものを読んでみたいわ」と言ってくれた英語のW先生、お元気ですか?僕はほんとうにwriterになってしまいました。

 

確かに小学校高学年からはたくさん本を読むようになっていた。学校や市の図書館を利用すれば、タダでいくらでも本が読める。科学関係の本もたくさん読んだが、父親が蔵書家だったので家には江戸川乱歩夢野久作太宰治小川未明島崎藤村国木田独歩柳田国男、日本古典文学などの全集があった。さらに自分のラジオを入手してからは聴く音楽の世界もぐっと広がった。世界が広がると共に当初の科学への関心は拡散気味になってきた。

高校2年生の時、進学についてそろそろ決める時期が来ていたので、「自分は何になりたいのか?」と自問してみた。そこで得た回答は「詩人」もしくは「ロックンローラー」。いつのまにか科学者への情熱は消えていた。「詩人」もしくは「ロックンローラー」が職業たりうるのか、よくわからなかった。「食えないからやめとき」とまたもや祖母に言われそうだ。でも銀行員や商社マンや公務員や医者などにはぜったいになりたくないと思った。それはオレの一度きりの人生でやることじゃない。そんな何ら根拠のない確信があった。でも、いま考えるとそれは正しい選択だったと思う。ランボーヴェルレーヌコクトーが好きだったのでとりあえずフランス文学科が良いだろうと思ってそういう大学に入学した。「オレは詩人になれるだろうか?」という希望と不安を抱いて。

 

日本の詩人で好きだったのは萩原朔太郎中原中也吉増剛造田村隆一谷川俊太郎、そして伊東靜雄だった。伊東の言葉選びのセンスにはすっかりまいっていた。若き三島由紀夫にも多大な影響を与えたその研ぎ澄まされた叙情……なんというか全盛期のマイルス・デイヴィスの音選びのセンスと通じる鋭さがある。

文庫本の詩集を買ったが、父親の書斎に全1巻の全集があるのはわかっていたので借りて読んだ。そして伊東の一生をかけた詩業をすべて読み終わった頃に確信したのは「オレは詩人にはなれない」と言うことであった。なぜならオレは「空っぽ」だからだ。世の中や他人に対して心から言いたいことなど何もない。

そこで空っぽではない誰かのために考えたり、書いたりする仕事をしようと思うようになり、現在の私がいる。

さきほど、この文を書くためにふと伊東靜雄のバイオグラフィーを調べてみて重大な事実に気がついた。伊東は大学卒業後、旧制大阪府立住吉中学校(現:大阪府立住吉高等学校)の教諭を務めていた。父は戦争中に疎開するまでその近くの帝塚山というところに住んでいたので、ひょっとしてと思って調べたら、まさに住吉中学校は父の母校であった。つまり父と伊東靜雄はある期間に教師と生徒の関係にあったはずなのだ。直接習ったのかはもう確かめる術はないが、父の書棚には萩原朔太郎中原中也の詩集はないのになぜ伊東靜雄だけ全集があるのか、なんとなく疑問だったがこれで謎が解けた気分だ

「ニック・アダムスのように」を探して

1982年、このアルバムの発売直後に「ロッキン・オン」で松村雄策が賞賛の記事を書いた。それを読んで僕はまず貸しレコード屋に走って、借りたレコードをカセットに録音して何度も何度も聞いた。カセットがヘロヘロになったころ、レコードを買って何度も何度も聞いた。そのころにはニック・ロウの他のアルバムも聞いてすっかりファンになっていた。1988年の九段会館における来日公演はバンドでなくニック一人の弾き語りステージ。一緒に見た友人は松村雄策と同じくもうこの世にはいない。松村の記事のタイトルは「ニック・アダムスのように」だった。そうヘミングウェイの「ニック・アダムスもの」と呼ばれるいくつかの短編小説に出てくる自然の中を放浪する少年の名前である。この文章が収録された松村の著書『岩石生活入門』で確かめてみると、記事はこのニック少年の野外での食事とその流れで目玉焼きとウスターソースの話に流れ、レコードの話はなかなか出てこない。最後のほうになってようやくレコードの話になったかと思うと「かっこいい」「センスが違う」としか言わない。そして最後の一文「ニック・ロウは洗練されていて、軽やかである。まるで五月の風のように、森や、川や、町の中を吹いていく。ニック・アダムスのように、素直に正直に吹いて行くのである」。そう、僕はこの一文でこれは聞くべきレコードと確信したのだった。20歳の私はそのときすでに松村の文章の勘所を理解していたのだと思う。実際、その通りだったし、以後、40年間聞き続けている。あと40年は余裕で聞き続けられるだろう。生きてさえいれば。
Nick the Knife

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ついに会えなかった福永武彦教授

 

 突如として、福永武彦マイブームがやってきた。

 きっかけは、仕事で知り合った女性から自作の句集が送られてきたことである。その本の「序」を読んでみると、彼女の父親は石田波郷の信奉者で、彼女自身も波郷の句を愛好し、彼が入院した清瀬の東京療養所跡を歩いたこともあるという。私が清瀬在住だと思い出して句集を送ってくれたとのこと。なるほど。石田波郷は私が卒業した清瀬市清瀬中学校の校歌を作詞している。

 

 ついでだからと清瀬市のホームページにアクセスして、波郷について何か触れられていないかとさがしたところ、新たに「文学散歩」のコンテンツができていた。そこには石田波郷吉行淳之介と並んで、福永武彦の名があった。3人とも当時は死病だった結核療養のため、清瀬で苦しい日々をおくった文学者だ。

波郷について調べるつもりだったが、僕の目は福永武彦に吸い寄せられた。

かつて受験生だった僕は、福永と辻邦生という実に渋好みな2名の作家が教授陣に並ぶフランス文学科に注目していた。その大学は第二志望だったけれど、第一志望に落ちてもここに行けるのならいいやと思った。見事……第一志望に落ちた。しかし入学先には福永教授はいなかった。僕が夏季講習を受けている間に病死してしまったのだ。61歳没。なんと今年、私は亡き福永先生の没年に達してしまう。

 福永の著書で最初に読んだ『草の花』がどうしても見つからない。誰かに貸したままなのか。古本屋に売ってしまったのか。それともわが家のどこかに埋もれているのか。しょうがないからKindleで電子版を購入。この小説は語り手が東京都下K村(もちろん清瀬村のこと)の結核療養所で知り合った男のエピソードから始まる。重症の結核だったその男はムリな手術を志願して死んでしまう。彼が残した2冊のノートがこの小説のほぼすべてだ。

 一言で言えばBL風味の若き愛の破滅。まず後輩の男との純粋な魂の愛、そして彼の妹への思い、そのいずれにも破れた男の苦悩と彷徨について、「クレーブの奥方」から「肉体の悪魔」にいたるフランス心理小説の伝統を日本語の端正な文章に置き換え、三島由紀夫も激賞したピュアとしか言い様がない青春小説としてまとめ上げた。これは絶対に20代前半までに一度は読みたい作品だが、還暦の私は昔を思い出しながら一気読みしてしまった(個人的には萩尾望都に漫画化して欲しい)。続いて初期短編集の『塔』を読み返し、清瀬での療養中を含め足かけ10年掛けて完成させたという『風土』が未読だったので、この夏に読もうと思っている。『塔』の巻末には、戦争中からの文学仲間で、大学教授としての同僚だったフランス文学者の白井健三郎が思い入れたっぷりに長めの解説を書いている。白井は私のゼミの先生だった。ゼミコンパの時にちょっとだけ福永との交遊の話をうかがったことがある。

 その病気と苦悩に満ちた生涯を思い起こすと粛然とならざるを得ないし、派手な名声こそないが、一度読んだら長く人々の記憶に残るその作品群に、この夏は個人的にあらためてスポットを当てていきたいと思っている。

ちなみに福永は映画「モスラ」の共同原作者(他に中村真一郎堀田善衛)、本格派の推理小説作家(ペンネーム:加田伶太郎)としても知られている。代表作の一つ『廃市』は大林宣彦監督が1983年に映画化した。作家・池澤夏樹は福永の息子であり、その娘の声優・池澤春菜は孫だ。近頃は町の本屋に福永の著書を並んでいるのを滅多に見ないが、今回、Amazonなどで調べてみると福永の著書はだいたい今でも入手可能である。電子本の全集も発行されていた。

 

福永はあの夏死んだのではない。きっとまだ生きている。

 

 

 

 

 

 

 



安部公房の“遺作”である『カンガルー・ノート』を読了

 

安部公房の“遺作”である『カンガルー・ノート』を読了。

読めばわかるが、本作は作者が自らの寿命を意識しつつ「性=生」と「死」の問題をモチーフとする中編である。大きな特色としては安部作品のなかでも特筆すべき「軽妙」さだろう。脛から生えてくるかいわれ大根。生命維持装置付きベッドでの彷徨。賽の河原でのひととき。メガネの看護婦。垂れ目の少女。ランニングを着ている小鬼たち……安部好みの意匠が続々と登場し、物語はシュールな盛り上がりを見せる。しかし『砂の女』のような内側に蓄積するイメージの濃密さはない。どこまでもオープンに、軽妙かつ滑稽にストーリーは時には読者を置き去りにしてぐいぐいと進んでいく。


安部が迫り来る自らの死を面白がっていたのか?それとも怖れの反動ゆえの軽妙さなのか? 読みながらそんな疑問が湧いてきた。その答はわからないが、個人的に興味深かったのが、安部がファンだというピンク・フロイドに言及している部分だ。まず、物語のはじめの方にピンク・フロイドの名が唐突に出てくる。

 

《波のうねりがしだいに幅を狭めてきた。船だろうか?櫓を漕ぐひそかなきしみ、船縁(ふなべり)をたたく水の音。まるっきりピンク・フロイドの『鬱』の出だしとそっくりじゃないか。バンド内の紛争でロジャー・ウォーターズが抜けた後、87年に制作された新グループによる作品だ。ぼくは以前から髭を剃った馬みたいなウォーターズのファンだったから、多少の偏見はあったかもしれない。でも出だしの音色には、昔の雰囲気が色濃くにじんでいて、悪くない。いずれ家に戻る機会にめぐまれれば、あらためて全曲を聞き直してみたいものだ。(新潮文庫版54P)

そもそも、この作品の主人公とストーリーを別の場所に運ぶために重要なビークルとして重要な役割を果たす「病院のベッド」は『鬱』のジャケットデザインから思いついたのかもしれない。そう考えると『鬱』収録曲の「Signs Of Life」「Learning To Fly」「One Slip」「On The Turning Away」「Yet Another Movie」「Round And Around」といった曲名と作品中の諸々のエピソードが符合しているように思えてならない。


最終章では、主人公が好意を寄せているBという女の子が「音楽が聞こえる」と言ったのに対し主人公は「空耳じゃないの」と返す。そしてその後の会話。

 

《「なんだっけ?ピンク・フロイドの……むかし、サーカスのときよく聞いた『エコーズ』……じゃなかったっけ……」

妙な符合だ。サーカスは知らないが、『エコーズ』ならぼくの大好きな曲である。夜、神経に逆毛が立って、眠たいのに寝られないようなとき、この曲はけっこう有効なのだ。狂気の静寂ってやつかな。》(同p.227)

 

「空耳」が「エコーズ」。「エコーズ」の歌詞にはこんな一節がある。

《街を歩く見知らぬ二人が 偶然視線を交わす 僕は君であり

僕が見ている者は僕だ 僕は君の手を取って この大地を経て君を導けば

僕ができる最上のことがわかるのだろうか?》(拙訳)

Bという少女は生(性)へ誘う天使でもあり、冥界に導く死に神かもしれない。
安部公房という人は、小説作品中に自分の痕跡、つまり私小説的な要素を入れないことにポリシーを持つ作家なのだが、この「ピンク・フロイド」に言及される部分は、あたかも傷口のように安部自身の血液・血管(趣味や性向など)を垣間見せる趣向になっているように思える。それが“遺作”ゆえなのかどうかは、本人に聞かなくてはわからない。

僕らの街に(またも)モスバーガーがやってきた。

 

 

 



西武池袋線清瀬駅」北口にある西友清瀬店1階にモスバーガーが6月10日オープン!

 僕はこのように看板が掲げられる前、外装工事が始まってすぐに気付いていたので、FBの地域コミュニティページに投稿したら「これでモスを食べるために秋津や東所沢まで足を伸ばす必要がなくなった!」「うそみたい!清瀬にモスが来るなんて!!」など、150を超えるものすごい反響でした。みんな、ほんとにモスが好きなんだね! ちなみにこのスペースには昨年秋までコージーコーナーがありました。これで清瀬駅北口にはハンバーガーショップの「マック」「モス」、コーヒーショップの「ドトール」「スタバ」が揃った。あとは「サイゼリア」が開店すれば言うことないのだが。

実は清瀬の地にモスバーガーができたのは今回が初めてではありません。私がまだ高校生だった1978年頃に南口商店街にひっそりと開店していました。当時はまだモスバーガーなんて誰も知りませんでした。しかし清瀬にはハンバーガー店ができたのはこれが初めてで、「注文を受けて作る本格的なハンバーガー」というチラシの惹句に釣られて私は学校帰りに寄ってみました。たしかに注文後なかなか出てこない。ほんとに一つひとつ作っているのかと感心しているうちに運ばれてきたモスバーガーは、分厚いトマトが挟まって、ソースがたっぷりかかったこれもマクドナルドよりずっと厚めのパテがバンズからびろんとはみ出していかにも美味しそう。かぶりつくと確かにジューシーで美味しい。しかしなんて食べにくいんだろう。手がソースとトマトの汁でベタベタだ。でも美味しい。がぶり…ああ、手が…その繰り返し。紙ナプキンを7~8枚消費しました。

その後清瀬駅前にサンテオレ、ロッテリア(いずれもすでに閉店)、そして真打ちマクドナルド(駅の南北に2店舗あったが現在は北口の1店舗)が登場し、いつの間にかモスバーガーは、ひっそりとなくなっていました。前述の地域コミュニティFBページで、「70年代末頃にあった清瀬モスバーガーをご存じの方いますか?」と期待せずに投稿してみたら、おそらく同年配以上と思しき方から「覚えてます」との返信があった。40年以上ぶりに復活した「清瀬モス」。今度こそ長続きして欲しいものです。