プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

安部公房の“遺作”である『カンガルー・ノート』を読了

 

安部公房の“遺作”である『カンガルー・ノート』を読了。

読めばわかるが、本作は作者が自らの寿命を意識しつつ「性=生」と「死」の問題をモチーフとする中編である。大きな特色としては安部作品のなかでも特筆すべき「軽妙」さだろう。脛から生えてくるかいわれ大根。生命維持装置付きベッドでの彷徨。賽の河原でのひととき。メガネの看護婦。垂れ目の少女。ランニングを着ている小鬼たち……安部好みの意匠が続々と登場し、物語はシュールな盛り上がりを見せる。しかし『砂の女』のような内側に蓄積するイメージの濃密さはない。どこまでもオープンに、軽妙かつ滑稽にストーリーは時には読者を置き去りにしてぐいぐいと進んでいく。


安部が迫り来る自らの死を面白がっていたのか?それとも怖れの反動ゆえの軽妙さなのか? 読みながらそんな疑問が湧いてきた。その答はわからないが、個人的に興味深かったのが、安部がファンだというピンク・フロイドに言及している部分だ。まず、物語のはじめの方にピンク・フロイドの名が唐突に出てくる。

 

《波のうねりがしだいに幅を狭めてきた。船だろうか?櫓を漕ぐひそかなきしみ、船縁(ふなべり)をたたく水の音。まるっきりピンク・フロイドの『鬱』の出だしとそっくりじゃないか。バンド内の紛争でロジャー・ウォーターズが抜けた後、87年に制作された新グループによる作品だ。ぼくは以前から髭を剃った馬みたいなウォーターズのファンだったから、多少の偏見はあったかもしれない。でも出だしの音色には、昔の雰囲気が色濃くにじんでいて、悪くない。いずれ家に戻る機会にめぐまれれば、あらためて全曲を聞き直してみたいものだ。(新潮文庫版54P)

そもそも、この作品の主人公とストーリーを別の場所に運ぶために重要なビークルとして重要な役割を果たす「病院のベッド」は『鬱』のジャケットデザインから思いついたのかもしれない。そう考えると『鬱』収録曲の「Signs Of Life」「Learning To Fly」「One Slip」「On The Turning Away」「Yet Another Movie」「Round And Around」といった曲名と作品中の諸々のエピソードが符合しているように思えてならない。


最終章では、主人公が好意を寄せているBという女の子が「音楽が聞こえる」と言ったのに対し主人公は「空耳じゃないの」と返す。そしてその後の会話。

 

《「なんだっけ?ピンク・フロイドの……むかし、サーカスのときよく聞いた『エコーズ』……じゃなかったっけ……」

妙な符合だ。サーカスは知らないが、『エコーズ』ならぼくの大好きな曲である。夜、神経に逆毛が立って、眠たいのに寝られないようなとき、この曲はけっこう有効なのだ。狂気の静寂ってやつかな。》(同p.227)

 

「空耳」が「エコーズ」。「エコーズ」の歌詞にはこんな一節がある。

《街を歩く見知らぬ二人が 偶然視線を交わす 僕は君であり

僕が見ている者は僕だ 僕は君の手を取って この大地を経て君を導けば

僕ができる最上のことがわかるのだろうか?》(拙訳)

Bという少女は生(性)へ誘う天使でもあり、冥界に導く死に神かもしれない。
安部公房という人は、小説作品中に自分の痕跡、つまり私小説的な要素を入れないことにポリシーを持つ作家なのだが、この「ピンク・フロイド」に言及される部分は、あたかも傷口のように安部自身の血液・血管(趣味や性向など)を垣間見せる趣向になっているように思える。それが“遺作”ゆえなのかどうかは、本人に聞かなくてはわからない。