プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

『ZAPPA』観てきたよ。

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フランク・ザッパのドキュメンタリー『ZAPPA』を観た。オープニングはビロード革命後、ソ連軍が撤退したチェコで大観衆に迎えられたライブのシーン、なんてタイムリーなんだろう。当時のチェコではザッパとはロックそのものであり、自由の象徴的存在であったらしい。最後の方で再びこのチェコのコンサートが出てくるが、ザッパは新しい民主化チェコの建国を祝福し、期待を寄せながらも「チェコらしさ」は決して失わないようにしてほしいとメッセージを飛ばす。


ロックの時代の最大の異端者であるザッパは、しかし単なる変わり者、変態ではない。「音楽業界のほとんどが〈音楽〉ではない」「自分の作曲がしたいのなら、作曲以外で収入を得なければならない」「多くのミュージシャンは搾取されている」「要求する基準を下げたら薄っぺらなものになる」「芸術的な判断は収益に左右されない」。こうした発言は驚くほど正しく、まっとうだ。しかし、この言葉通り「生きる」ことはたいへん難しい。まして60~70年代のクレージーなポピュラー音楽の世界での話なのだ。すべて見終えた今、映画の中にちらりと登場するやはりロックの時代のアイコンであり、異端者だったあのジョン&ヨーコ夫妻でさえ、ザッパに比べるとてんで小物に思えてくる。

この映画が語っているのは、ザッパが本質的に「作曲家」だったということだ。私たちはザッパを漠然と「ロックミュージシャン」のカテゴリーに入れているが、その生涯を見渡せる今、それは適切なことではないと彼の言動や行動から気付かされる

「自分が作った曲を聴くためにはバンドをつくるしかなかった」「「俺の願いは単純だ。作った曲全てのいい演奏といい録音をする、そしてそれを家で聴く。 聴きたい人がいたらすばらしい」。いわゆる「作曲家」とザッパの違いは、演奏して自分で聞いて、納得するところまでが彼にとっての「作曲」だということだろう。そして自分自身が一番の自分の曲のファンであることだ。なかなかそこまで言い切れるミュージシャンはいないだろう。


しかもジュリアード音楽院で学んだ音楽エリートのルース・アンダーウッドが驚くように、ギターに関しても、作曲に関してもすべて独学。最初にギターを手にしたときはフレットの役割さえ知らなかったというのが驚異的だ。長年パーカッショニストとしてザッパの信頼を得ていたルースはザッパの作品を「ロックでもないしジャズでもない、ポップでもない。じゃあ一体なんなの?…… “ザッパよ”」と喝破する。あるシーンではザッパ作品をピアノでうっとりと演奏する。バンマスとしてのザッパの素っ気なさにむかついた経験を語りながらも、ミュージシャンとして巨大さにひれ伏すルースの表情は恋する少女のそれだ。亡くなる前年「会うのはこれが最後」と悟ったルースはザッパに対する感謝の気持ちをしたためた手紙を渡す。それを読んだザッパは「いい手紙だ」と素っ気なく言って、ルースを(おそらく初めて)抱きしめた。僕は最終的に、この映画は音楽を介した二人のラブストーリーではないかと感じた。映画には奥さんのゲイル・ザッパもたくさん登場していて、ザッパの良き理解者であったことが表現されているのだが……。また映画にはたびたびザッパ宅の倉庫、すべての録音・録画を保管した場所が映し出される。どのテープがどのアルバム作品やいつのライブのものかを説明するザッパは「これがオレの人生そのものなんだよ」と言っているように思えた。

 

日本経済新聞/NIKKEI STYLEにドライアイに関する健康コラムが掲載されました。

新聞紙面では2月26日(土)付けで別刷りNIKKEプラスワンに掲載。NIKKEISTYLEは本日早朝より公開されました。

style.nikkei.com

春来たりなば…

フライの雑誌 124(2022春号): 特集◉3、4、5月は春祭り 北海道から沖縄まで、毎年楽しみな春の釣りとそのとき使うフライ|『イワナをもっと増やしたい!』から15年 中村智幸さんインタビュー|島崎憲司郎さんのスタジオから 3、4、5月に欠かせない釣りと、その時使うフライパターン一挙掲載!

フライの雑誌 124(2022春号): 特集◉3、4、5月は春祭り 北海道から沖縄まで、毎年楽しみな春の釣りとそのとき使うフライ|『イワナをもっと増やしたい!』から15年 中村智幸さんインタビュー|島崎憲司郎さんのスタジオから 3、4、5月に欠かせない釣りと、その時使うフライパターン一挙掲載!

 

 

 冬来りなば春遠からじ…私たちはコロナ禍という長い長い冬を耐えてきた。愛読している『フライの雑誌』最新号は、「3,4,5月は春祭り」という特集で、全国の釣り人たちが、春を満喫できる自分たちの釣り場と魚、そして使う毛鉤などがカラー写真を交えて紹介されている。なかなか釣りに行けない日々を過ごしているが、読んで、見ているだけで気持ちだけは爆上がりである。ちなみに私のメールアドレスに使われている「indoorffm」という謎の文字列は 「Indoor FlyFisher Man」、すなわち家で妄想を膨らませている釣り人という自嘲から付けたものだ。


 解禁となるヤマメ、イワナなどの渓流はもちろん、湖、海と春の訪れを満喫するフィールドは人それぞれ。フライフィッシングというと、こじゃれたトラウトフィッシングの釣りというイメージであるが、もはや日本各地域に即した足が地に着いたフライフィッシングが根付きつつあることを実感させられる特集であり、この雑誌がそのために果たしてきた役割の大きさをあらためて感じた。かくいう私も近所の川の四季をフライロッド(時にはルアーロッド)によって実感しているのだ。
 そんなウキウキする誌面の中に釣り仲間の突然の事故死に関する長いエッセイが掲載されていることも、この雑誌の侮れないところだ。写真も何もなく文字だけで10ページにも及ぶ。仲間の死への悔恨と「こういう釣り仲間がいたんだ」という記憶を誌面に焼き付けておきたいという筆者の気持ちが溢れだしそうな読みごたえがある文章だった。
 釣りは楽しい。しかし自然が相手だけにつねに危険と隣り合わせであることも否定できない。うちの近所の川ですら時には牙をむく。2年前には公団団地の前を流れる淵になった部分で小学生が深みにはまって溺死した。4年前には同じ川の下流で高齢の釣り人が大雨の中釣りをしていて流され、7~8km下流で土座衛門となって上がった。さすがに近所の川ではないが、私も谷が深い渓流単独釣行の際に、「ここで足を滑らしたら、一巻の終わりだな」と肝を冷やした経験が数回ある。
 それでも釣り人は川へ向かう。もちろん死に出会うためではない。いま、ここで、自分が生きている実感を確かめるように水辺を歩き、釣竿を振る。釣り糸を通して伝わる魚のアタリと躍動感を自分の心臓の鼓動のように聞き、恋人を寝室にいざなうように慎重に釣竿を操るのだ。

 

 結局、何が言いたいかといえば、「春来たりなば、釣り遠からじ」。ようやくの春なんだから、一刻も早く釣りに行きたいでござるよ。カモーン、ヤマメちゃーん!

「モンテ・クリスト伯」から「成城だより」。そして「大岡さん」と「大谷さん」

 

成城だより 上 (講談社文芸文庫)

成城だより 上 (講談社文芸文庫)

 

 

 昨夏に義弟が新型コロナウイルス感染症で亡くなって、諸行無常な気分に陥りながら手に取ったのは、学生時代に読んだ「モンテ・クリスト伯」だった。かつてと異なる訳者だったが、良い訳文だと感じた。そしてこの小説はほんとうに良くできた伝奇物語であり、復習譚であり、愛の物語であり、人物伝である。
 仲間の裏切りによってどん底に陥った船乗りダンテスがスーパー貴族「モンテ・クリスト伯爵」として再生し、着々と復讐を果たしていくこともワクワク面白いのだが、白眉は復讐を進めるダンテスが次第に憂愁にとらわれ、身近な愛すら見ようとせずに、この世から消えようとしている終盤の流れである。いや実は若い頃はぜんぜんそこらへん気にしていなかったのだが、この年になると華麗なる復讐より、憂愁に沈む孤独な男の心情ほうがぐっとくるのだ。でも最後にダンテスは愛を抱きしめながら去っていく。よかったよかった。
 ちびちび読み続けて半年あまり、先週全巻読了して、次に手に取ったのは「成城日記」。晩年の大岡昇平の身辺雑記のようなものだ。これがめっぽう面白い。年取って身体の自由がきかなくなっても、大岡氏の好奇心は縦横無尽。村八分、クラッシュ、ドアーズ、ジミ・ヘンドリックス、アバ、シーナ・イーストンなど洋楽ロックや中島みゆきYMOの音楽を楽しんでいて、坂本龍一がかつての自分を担当した編集者の息子であることを知り驚いたりしている。高野文子岡田史子の漫画に感動し、流行の記号論ゲーテルの不完全性定理に興味津々。世の中の事件や政治状況、世界情勢に対して鋭い見識を見せたかと思うと、身近なそば屋など飲食店や書店をめぐる日常をだらだらと書き記す。高齢で本が読めなくなったと言っているが、まあ、ふつうに考えれば大した読書量である。ジャンルを問わず濫読である。憧れる。

まだ、読みかけなのだが、心してゆっくりこの大作家の日常を味わって読みたいと思う。

実は大岡昇平の大岡家とわが大谷家は少々縁がある。大岡家の実家はもともと和歌山市の花街で茶屋を営んでおり、その近所に私の曾祖父の母親(曾祖父の父親とは離婚)がやはり茶屋を出していた。浮気性と伝えられるその女性が「大谷」姓で、跡継ぎがいなかったため「北条」姓だった私の祖母が養女に入って「大谷」家を継いだ。ちなみに祖母の夫、私の祖父は「中井」姓でこの人は、養子として「大谷」家に入った。

祖父母の長男である伯父は子どもの頃にその茶屋に遊びに行って、白粉の匂いをプンプンさせたそこで働いていた女衆にチヤホヤされたことを覚えていると聞いた。大岡昇平は、新聞記者で著述家でもあったその伯父に当時の自分の実家についても調べてほしいと依頼したが、すでに当時を知りながら生き残っている人たちも少なくて、大したことはわからなかったそうだ。

死ぬ前に1度、その花街跡を訪ねてみたいと思っている。