プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

『関白秀次の切腹』(矢部健太郎著)を読む。

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 帯にセンセーショナルなキャッチコピーが踊るが、本書に書かれているのは、織豊期研究の第一人者の著者による厳密な史料批判に基づいた従来の解釈を覆す新説だ。

 歴史研究の結果、戦国のヒーローたちも歴史小説などで定着したかつてのイメージが徐々に薄れてきている。たとえば織田信長はひらめきの天才武将、唯我独尊の独裁者ではなく、案外と常識をわきまえ、部下や周囲の女性たちにも細々と心を配っていたことがわかっている。
 叔父の豊臣秀吉に関白の地位を譲られた豊臣秀次は、無能な上に性格と素行に問題があり、残虐な人殺しを好むことから「殺生関白」とも呼ばれた。しかし、秀次の悪行の数々として伝えられている事柄は、いずれも史実としては認めがたいものが多く、現在はこの見方を支持する専門家は多くない。無能というのも疑わしい。戦での失敗は10代の頃の小牧長久手の戦いぐらいで、あとは着実に成果を上げてきた。また、大名としての秀次は、町づくりなど行政政策と文化振興両面で近江八幡を発展させており、今もなお地元では近江八幡市の礎を築いた名君とされている。

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豊臣秀次像 瑞泉寺蔵(部分)

 

 さて秀次の切腹は、秀吉に跡継ぎの拾(後の秀頼)が誕生したことで、自暴自棄になって謀反を企んだことが理由ということになっている。しかし、「秀次の謀反」というものも今や専門家の間では、秀吉や徳川期の人々によってでっち上げられたものであろうというのが通説になりつつある。しかし、老いた秀吉が秀頼を後継者にしたい一心で秀次に死を命じた、という通説に疑いを持つ人は誰一人いなかった。本書の著者を除いて。

 著者の考えを端的に言えば、秀次は太閤秀吉に命じられて泣く泣く切腹したのではなく、潔白を訴え自らの意志で腹を切った。その結果、むしろ秀吉や部下の石田三成らが、それこそ泣く泣く秀次を「反逆者」として位置付け、その妻子を皆殺しにせざるを得ない』状況に陥ってしまった……。ここまでの話で「あ、それは!」と思われたのは大河ドラマ真田丸」を観ていた方に違いない。

 

実は先日、國學院大學文学部長でもある著者にお話を聞く機会を得た。その時に話の流れで本書に書かれている秀次切腹事件の趣旨をお話しいただいた。「先生、その解釈は大河ドラマ真田丸』で描かれた秀次像ですね!」と訊くと、「実はあのドラマが決定した後に、私がこの本を脚本の三谷幸喜さんに送ったんです」と書棚から本書を取り出された。三谷氏は本書の秀次事件の解釈をしっかり脚本に反映され、これまでの歴史ドラマにはなかったとても印象的な秀次像が描かれたというわけだ。私はその足で大学の書店に行って本書を購入した。

 著者の矢部健太郎教授にお話を聞く中で「なぜ矢部先生は織豊期の研究者を志されたのですか?」とうかがった。自分と同い年ぐらいなら大河ドラマ国盗り物語」か、少し年上なら緒形拳が秀吉を演じた「太閤記」あたりがきっかけかも? そう思いながら尋ねてみると「いやあ、実はゲームの『信長の野望』でした」。矢部先生、落ち着きと風格に満ちた方ですが、なんと私より10歳以上年下なのでした。ぎゃふん。

パトリシア・ハイスミス讃

 

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以前、友人二人と居酒屋で好きな小説の話をしていて、「現実の世の中でなかなかハッピーになれないから、小説ぐらいはハッピーエンドでありたいよね」みたいなことを私以外の二人で同意しているのを聞きながら、(そういう考え方もあるのか…)と考えさせられた。というのも私はまったくそんなことを考えたこともなく、文字を追うのが辛いほど悲惨な展開だったり、読後も頭がぐらぐらしてしまうほどの後味の悪さみたいなもののも、現実をデフォルメして映す鏡である小説という表現形態の醍醐味だと考えているからだ。そういうの大好き!
 パトリシア・ハイスミスの作品群は、ハッピーエンドを望む小説読者にもっとも読ませてはいけない類いの本だといえる。「見知らぬ乗客」や「太陽がいっぱい」など映画化作品もあるが、それらの作品の原作を読むと映画とは随分と印象が異なる。映画「太陽がいっぱい」はアランドロン演じる主人公トム・リプリーの逮捕を暗示して終わるが、小説のトムはまんまと官憲の手を逃れ、その後ハイスミスは悪漢トムが活躍する「リプリー・シリーズ」を書き継いでいる。リメイク映画マットデイモン主演の「リプリー」のほうがやや原作寄りのキャラ設定かもしれない(でもかなり違う)。
 ハイスミス作品の後味の悪さとは何か? それは人間存在そのものの後味の悪さではあるまいか。先週再読した『変身の恐怖』は、NY在住の物書きが主人公。チュニジアへの海外取材を伴う仕事を頼まれ、早速タイプライターと原稿用紙を抱えて現地に赴く。ところが留守中にその仕事を頼んだ人物が、あろうことか自分の恋人に横恋慕した末、主人公の家で自殺してしまうというとんでもない事件が起きる。仕事先のチュニジアにいる主人公にはなかなか事件の詳細が伝わらない。当事者である恋人からの連絡もなく、悶々としながらも仕事だけは着実にこなしていく。そんな日々の中で、主人公は自分が住む部屋に侵入しようとした現地の男に仕事道具のタイプライターを投げつけて「殺してしまったかもしれない」という事態に直面する。なぜ「かもしれない」かといえば、死体が消え去っていたからだ。自分の行為が必ずしも死に結びついたわけではないという思いもある。

 そんなモヤモヤした状況の中でおせっかいで変わり者の米国人、ヒッピーっぽい北欧人アーティストと関わりあい、やがて恋人がチュニジアを訪ねてくる。それを契機に心をすっきりさせたい主人公(および読者)だが、まるでストーリーはそう進まない。北アフリカの熱気と倦怠感の描写が、停滞するストーリーにさらに息苦しさを加える。北欧人アーティストと主人公の間にはホモセクシュアル的な空気が流れる瞬間もある。結局、この物語は主人公が恋人と別れ、昔の恋人と復縁する可能性を示唆して終わってしまう。そう「終わってしまうのだ」。途方に暮れた読者が抱えるもの。その後味の悪さ。それはまさにきみや僕のものではないか! 

『変身の恐怖』の訳者は吉田茂元首相の息子で、麻生太郎元首相の叔父でもある吉田健一。その癖の強い訳文はこの作品にぴったりだ。あと書きで吉田はこう書いている。「……従ってこれは誰もが人間であることを求めている小説であるといえるので、それでそこにわれわれもわれわれを見い出すことになる。ここにはいかにあるべきかということなど書いてなくて、ただそういうことを考えて生きている人間だけが書かれている……」。
 これを読み、まさにその通りだと吉田氏の手を取りたい気持ちになった。ここのところ忙しさで見失いがちになっていた自分を取り戻すために、この年末年始はハイスミス再読強化期間にしようかなと思っている。

日本経済新聞にオンラインで触れる職人技について書きました。

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本日の日経夕刊にこんなコラム記事を書きました。掲載は夕刊。web版では登録すれば無料で全文読めます。記事で取り上げた土屋鞄では大人用ランドセルも作っており、いま自転車通勤者に人気だそうです。ちょっと欲しい。

www.nikkei.com

「藤原仲麻呂」(中公新書)と「明治十四年の政変」(インターナショナル新書)を読んだ。

 
 

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忙しい合間、時には仕事から逃避して古代史と近代史の新書を並行して読んだ。「明治十四年の政変」は仕事のため借用した本だが興味あるテーマだったので、別に自分で購入した。憲法制定や議会開設の考え方の違いから、伊藤博文らよって参議の大隈重信が明治政府から追放された事件だが、対立というよりはボタンの掛け違いの連続で、福沢諭吉五代友厚など民間の人々も絡んできてドラマとしても面白い。大河ドラマでもこのエピソードは取り上げられるかもしれない。
藤原仲麻呂」は新しい研究成果を盛り込んで、栄華の末に滅びたこの異能の政治家の真実に迫る。著者は「藤原仲麻呂の乱」というのは実のところ「孝謙上皇の乱」だったと喝破する。一族で権力を固める権謀術数の一方、中国皇帝の善政への憧れから官職名を唐風に改め、貧しい民のための改革政策を多く打ち出した。蘇我入鹿と共に逆臣の地位に置いたままだと、その真の姿が見えにくくなる人物を多角的に解剖した心踊る一冊であった。
ところでこの2冊が扱っている時代は1000年以上離れているのだが、太政大臣、右左大臣、参議といった官職名が同じであることが面白い。明治14年の政変後に太政官官制はようやく廃止される。朝廷というのはほんと時間が止まった世界だったのだ。