プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

パトリシア・ハイスミス讃

 

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以前、友人二人と居酒屋で好きな小説の話をしていて、「現実の世の中でなかなかハッピーになれないから、小説ぐらいはハッピーエンドでありたいよね」みたいなことを私以外の二人で同意しているのを聞きながら、(そういう考え方もあるのか…)と考えさせられた。というのも私はまったくそんなことを考えたこともなく、文字を追うのが辛いほど悲惨な展開だったり、読後も頭がぐらぐらしてしまうほどの後味の悪さみたいなもののも、現実をデフォルメして映す鏡である小説という表現形態の醍醐味だと考えているからだ。そういうの大好き!
 パトリシア・ハイスミスの作品群は、ハッピーエンドを望む小説読者にもっとも読ませてはいけない類いの本だといえる。「見知らぬ乗客」や「太陽がいっぱい」など映画化作品もあるが、それらの作品の原作を読むと映画とは随分と印象が異なる。映画「太陽がいっぱい」はアランドロン演じる主人公トム・リプリーの逮捕を暗示して終わるが、小説のトムはまんまと官憲の手を逃れ、その後ハイスミスは悪漢トムが活躍する「リプリー・シリーズ」を書き継いでいる。リメイク映画マットデイモン主演の「リプリー」のほうがやや原作寄りのキャラ設定かもしれない(でもかなり違う)。
 ハイスミス作品の後味の悪さとは何か? それは人間存在そのものの後味の悪さではあるまいか。先週再読した『変身の恐怖』は、NY在住の物書きが主人公。チュニジアへの海外取材を伴う仕事を頼まれ、早速タイプライターと原稿用紙を抱えて現地に赴く。ところが留守中にその仕事を頼んだ人物が、あろうことか自分の恋人に横恋慕した末、主人公の家で自殺してしまうというとんでもない事件が起きる。仕事先のチュニジアにいる主人公にはなかなか事件の詳細が伝わらない。当事者である恋人からの連絡もなく、悶々としながらも仕事だけは着実にこなしていく。そんな日々の中で、主人公は自分が住む部屋に侵入しようとした現地の男に仕事道具のタイプライターを投げつけて「殺してしまったかもしれない」という事態に直面する。なぜ「かもしれない」かといえば、死体が消え去っていたからだ。自分の行為が必ずしも死に結びついたわけではないという思いもある。

 そんなモヤモヤした状況の中でおせっかいで変わり者の米国人、ヒッピーっぽい北欧人アーティストと関わりあい、やがて恋人がチュニジアを訪ねてくる。それを契機に心をすっきりさせたい主人公(および読者)だが、まるでストーリーはそう進まない。北アフリカの熱気と倦怠感の描写が、停滞するストーリーにさらに息苦しさを加える。北欧人アーティストと主人公の間にはホモセクシュアル的な空気が流れる瞬間もある。結局、この物語は主人公が恋人と別れ、昔の恋人と復縁する可能性を示唆して終わってしまう。そう「終わってしまうのだ」。途方に暮れた読者が抱えるもの。その後味の悪さ。それはまさにきみや僕のものではないか! 

『変身の恐怖』の訳者は吉田茂元首相の息子で、麻生太郎元首相の叔父でもある吉田健一。その癖の強い訳文はこの作品にぴったりだ。あと書きで吉田はこう書いている。「……従ってこれは誰もが人間であることを求めている小説であるといえるので、それでそこにわれわれもわれわれを見い出すことになる。ここにはいかにあるべきかということなど書いてなくて、ただそういうことを考えて生きている人間だけが書かれている……」。
 これを読み、まさにその通りだと吉田氏の手を取りたい気持ちになった。ここのところ忙しさで見失いがちになっていた自分を取り戻すために、この年末年始はハイスミス再読強化期間にしようかなと思っている。