プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

ミシェル ウエルベック『地図と領土』を読んだよ。

※ややネタバレ有り。

地図と領土 (ちくま文庫)

地図と領土 (ちくま文庫)

 

1976年生まれの現代アーティストのジェド・マルタンが、2046年に70歳で死ぬまでの物語。第二部では作者ミッシェル・ウエルベックが重要な役割を果たす人物として登場し、無惨なカタストロフを演出する。そして終盤にはウエルベック殺人事件を捜査する警察官が視点人物として大きくフィーチャーされる。

 

建築家・経営者である父、子どもの頃に自殺した母。その一人息子として育ったジェドは、人との交わりに関して積極的ではない孤独な男だ。そこにロシア系の女性オルガが登場してロマンチックなムードが高まるが、お互いに思い合う気持ちがありながらその恋は成就しない運命にある。そのリリカルな悲しみはウエルベック作品には珍しい筆致だ。

 

ジェドは祖父の遺品であるリンホフカメラで機械や工具など工業製品の撮影でフォトグラファーとしてのキャリアをスタート。次に「スキャンしたミシュラン道路地図」をデジタルカメラで撮った作品シリーズが現代アートとして成功を収める(タイアップしたミシュランの広報担当がオルガだ)。ところがジェドは突然カメラを捨ててしまい、今度は絵筆を手にして職人の肖像を描き始める。最初は無名の職人だったが、やがて大金持ちになった2人の職人ビル・ゲイツスティーブ・ジョブスがチェスをしながら情報科学の将来を語り合う場面を描くまでになる。この職人の肖像シリーズの個展カタログの解説の書き手として選ばれたのが超人気作家ウエルベック。二人の交流はごく短い言葉少ないものとなったが、きわめて密度の濃い邂逅として描かれる。

 

ウエルベック殺人事件捜査を指揮するジャスラン警視は、まるで死神のように、物語の幕引きのために突然物語の前面に登場する。有能な警察官のはずだが、まるで颯爽としていない。さまざまな屈託を抱えながら事件の謎に迫っていく。そしてジェドの証言によって明らかになった意外かつあっけない事件の真相。ジャスランは事件だけではなく自分のキャリアを締めくくる事実と直面した。

物語のエピローグは存外に長い。過去の父との邂逅、その死への慟哭。ジェド自身は、そして作者は、物語に「結末」を与えることができないように見える。そして結末のかわりに置かれたピリオドが「ジェドの死」だった。これ以上ない過激なストーリーテリング。読者は静謐な地獄に置き去りにされる。快感。

利休忌に「へうげもの」を読み返そうかと考える。

 

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今日は利休忌で、その弟子であった「(古田)織部の日」でもあるという。

慶長4(1599)年の今日、千利休を継いで豊臣秀吉の茶頭となった古田織部が、亡き師を想って自分で焼いた茶器を用いて茶会を催した。織部焼の始まりである。


その師弟二人が重要人物として登場するマンガ「へうげもの」は2005年から2017年までの約12年間にわたり週刊「モーニング」に連載された“戦国大河絵巻”だ。主人公は古田織部で、利休は前半部の最重要人物として主人公に多大な影響を与え続ける。


歴史フィクションは、最低限の史実の上でどれだけオリジナリティのある遊びを披露できるかが勝負なのだが、その点では極上の作品となった。平成を代表するマンガの一つだろう。

章タイトルは洋楽や歌謡曲などのパロディで、作品中にも「ナボナの王選手」などさまざまなTVコマーシャルのパロディがストーリーの流れの中に挟み込まれていく。戦国武将たちの顔やキャラクターも現代の有名人を参照にしており、加藤清正具志堅用高になぞらえられていることには大笑いだし、細川幽斎が子孫である「細川護煕」の顔なのも唸った。利休の茶友である高山右近細川忠興蒲生氏郷、織田有楽斉らのキャラクターも楽しい。そして同僚であり、やがて上司であり、時に仇敵であり、実は心の友である木下藤吉郎豊臣秀吉は、常に物語に緊張感を与え続ける存在である。

このマンガの序盤最大の事件である本能寺の変は、フィクションで描かれた本能寺の変史上最も途轍もないものと断言できる!ここに描かれた信長の最期には驚いたし、笑ったし、そして泣いた。もちろん今年の大河ドラマの主人公である明智光秀も前半のストーリーで大きな役割を果たす。おそらく徳川家康江戸幕府設立は光秀の太平への思いを成就させるための営為だったと作者は考えているのだろう。家康の転機となる光秀の死の直前に、ずっと後年の江戸期に芭蕉が詠んだはずの「月さびよ明智が妻の話せむ」の一句が登場するのが実にミラクルな展開であった。

そして中盤のハイライトであった利休の切腹の凄まじさ。漫画史上に燦然と屹立する名シーンだ。

史実通り、この作品でも織部徳川幕府から切腹を命ぜられるのだが、父家康に従いながらも織部と師弟の交情を交わす徳川秀忠が後半のストーリーに微妙な陰影をもたらした。

さあ、全25巻、どこから読み返そうか。やはり最初からか。

アマチュアとして生きる。

 

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体験という言葉の空しさ。体験とは実験ではない。それは人為的にひき起こすこともできぬ。ひとはただ、それに服するのみだ。それは体験というより、むしろ忍耐だ。ぼくらは我慢する──というよりむしろ耐え忍ぶのだ。
あらゆる実践、ひとたび経験を積むと、ひとはもの識りにはならない。ひとは熟練するようになる。だが、それが一体なにに熟練するのだろう?
アルベール・カミュ『太陽の讃歌』高畠正明訳 より)

 

飯を食って行くために人はプロになる。異論はあろうが、ま、大多数がそうである。私もそうだと思う。が、プロになりたいと切実に心からわき上がるものを持ったことはなかった。たま〜に、さすがプロ、と言われることもあるが、それほど私がよろこばないのはそのためである。仕事でも、芸事でも、プロの人はやはりすごいと私も思う。でも、そこには滲み出す退屈さがきっと同居しているのだ。

ちなみに(生きていれば)本日喜寿を迎えたジョージ・ハリスンは、ビートルズ時代から亡くなるまで、ずっと素人っぽいギタリストであった。そして、まさにその素人っぽさが最高!なのだ。もちろん、単に私の好みに過ぎないかもしれん。

拡散して生きる。それだけが今の願いだ。

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こんなの書きました。ハイサワー特区やウイスキー祭 酒愛溢れる地元で乾杯 : NIKKEI STYLE

私が担当した2/1日経夕刊掲載記事が、NIKKEI STYLEに転載されてどなたでも読めるようになりました。今年の「秩父ウイスキー祭」は2/16に秩父神社などで開催されますが、試飲券チケットはすでに売り切れです。武蔵小山&西小山「ハイサワー特区」は年中無休です。

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老人と子供のポルカ〜筒井康隆『老人の美学』とブレイディみかこ『僕はイエローでホワイトで、ちょっとブルー』雑感

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筒井康隆『老人の美学』とブレイディみかこ『僕はイエローでホワイトで、ちょっとブルー』。年明け早々にこれら話題のベストセラー本2冊を読んでみた。

 それぞれ同じ本を読んだ人とじっくり語り合いたくなる良書だが、老人と子供という人生の両端について書いたこの2冊を続けて読んだ後に浮かび上がったキーワードは「演劇」あるいは「演じる力」だった。

 

帯に「最初で最後、最強の人生論」とうたわれている『老人の美学』で筒井はいつになく神妙な顔をして老後を語っているように見える。テーマが筒井自身に重なることでもあるからだろうが、ただし通読するとそこここにブラックな嗤いが置き石のように配置され、クスリとすることになる(読んでもそうしたブラックに気付かない人もいるかもしれない)。

 

本書のコンセプトは「どのような老人にせよ、自分が理想とするような老人には、モデルとなる人物や思想が存在するはずである」(『老人の美学』一 人生の時代区分と老人年齢の設定 より)ということになる。そのスタートラインから自らの見聞、経験、あるいは作品内容を交えながら「老人が昔の知人と話したがる理由」「ちょいワル老人はなぜか魅力的だ」『美しい老後は伴侶との融和にあり』「『老人は汚い』と言われない為に」などという論点(それぞれ章タイトル)に敷衍されていく。

そこで必要とされるのが理想を体現するための「演技力」だ。


ちょいワル老人として好かれるためには、ある種の演技力が必要になってくるが、慣れない人が下手にやると鼻につき、嫌われてしまう。(中略)その点、小生がずいぶん得をしているのは演技の勉強をしてきたことである。これまでにも何度が言ったことだが、演技の訓練というのはどんな職業の人にも役に立つから、機会があればそれを受けておくべきだろう。しかし老年になってからでは遅いかもしれない。(『老人の美学』六 ちょいワル老人はなぜか魅力的だ より)

 

 筒井が学生時代から演劇に深く関わってきたことはよく知られているが、老人になってあらためて「演技力」の効用を身に沁みて実感しているようだ。サラリーマンだって、自分の役柄を演じきるスキルとメンタルが仕事の出来不出来を左右するだろうし、若い時代の(年取ってもか)恋愛の局面なんてまさに狐と狸の化かし合いである。

 

その「演技力」が学校教育の中で重要な位置を占めているという話が出てくるのが、『僕はイエローでホワイトで、ちょっとブルー』だ。英国ブライトン在住のブレイディみかこさんの息子は、たまたま入学できた良家の師弟が通うカトリック公立小学校から、本人の意志でかつては荒れていた「元底辺中学校」に進学した。その中学校では校長や先生たちの努力で多様性教育、表現教育を前面に押し出し、底辺から脱して、生徒たちが主体的に勉強のほかにバンド活動や演劇活動などに取り組むカリキュラムと指導体制が整えられている。そしてシェイクスピアの国だけに、この中学校に限らず英国の中学校教育には「ドラマ(演劇)」という教科が組み込まれており、中学教育終了時の全国統一試験の受験科目の一つにもなっている...という話題が出てくる。

とはいえ、別に英国は俳優を大量育成するために学校で演劇を教えているわけではない。日常的な生活の中での言葉を使った自己表現能力、創造性、コミュニケーション力を高めるための教科なのである。

(『僕はイエローでホワイトで、ちょっとブルー』 2.「glee/グリー」みたいな新学期 より

 

英国教育の演劇重視のスタンスは幼児教育から始まっているそうだ(著者は保育士でもある)。日本でも幼稚園の学芸会で劇をやったりするが、協力して物事に取り組むことを重視しているわが国のそれと英国の演劇教育は狙いがずいぶん違っている。

笑っている顔は、嬉しいとき、楽しいときにする表情であり、怒っている顔は怒りを感じているときにする表情なのだと言うことを幼児に教え込むのだ。壁に様々な表情をしている人々のポスターを貼って、「これはどんな顔?」と繰り返し質問し、「じゃあ、みんなもこの顔できる?」と同じ表情をさせてみる。そこから今度は「では、みんなはどういうときにこんな顔をしたい気分になる?」と話を展開して、「気持ち」と「それを表現すること」、そして「それを伝えること」はリンクしていると教え、自分の感情を他者に伝えられるように訓練するのだ。

(『僕はイエローでホワイトで、ちょっとブルー』 2.「glee/グリー」みたいな新学期 より)

 

「ありのままの自分」というか、「素直さ」「正直さ」に重きが置かれるわが国の〝国民性〟を鑑みると演技者でもない者が演技をすることへの抵抗感があるのかもしれない。演技とはあくまでフィクションの中での振る舞いであり、現実社会で演技することは不誠実だとかなんとか....しかしそういう社会に限ってホンネとタテマエ的な演技がデフォルトとなっているのだからなにをかいわんやである。ラテン民族のカトリック国で性倫理が厳しいことと同じなのかもしれない。


一方で英国の中学校には「ライフ・スキル教育」という科目もあり、こちらはいわゆるシティズンシップ、すなわち社会や政治の仕組み、法や権利の提示するコンセプトを当事者=自分の問題として考える教科になっている。英国の子どもたちは小学生から「子供の権利」について繰り返し教えられるらしい。中学生ともなるとEU離脱テロリズム移民問題LGBTなどについても考察することになる。日本では意識高い系の名門私立中学校ではこれぐらいのことをやるかもしれないが、これは元底辺中学校を含む公立中学校の話なのだ。英国の初等中等教育が必ずしもうまくいっているわけではないし、日本では考えられない破綻もあることは承知しているが、この演劇と社会的リアリズムの導入はうらやましく感じる。

 

昨秋、いじめ問題への第一人者である群馬県高崎市教育長の講演を聴いた。元高校教員の彼はいじめ問題への取り組みを始めた頃に英国の学校に視察に行った。英国の学校にもいじめは存在したが、日本とは決定的に異なる点があり、それはいじめの当事者ではなく「傍観者」の問題だ。講演では、日本に特有な「いじめの4層構造」を指摘していた。すなわち「被害児童生徒」を中心に「加害児童生徒」、周囲で煽り立てる「観衆」、さらにその周りにいる「傍観者」という構図だ。「この構図をなくさない限り、いじめは減らない」。日本のいじめはエスカレートするのも、長期化するのも「傍観者」がいてこそだというのだ。「傍観者」とは何か?それは事態の推移をじっと眺め、そこで感じた感情を押し殺し、「演技」を放棄した人々の群れであろう。すなわち「観客」にも劣る存在だが、それが多くの観客が集まっているように見えれば、劇を主演しているつもりのいじめの加害者は活気づく。それがきわめて稚拙で間違った演技であったとしてもだ。かくして学校を舞台にいじめのロングランが繰り広げられる。

 

日英の国情や国民性の違いを含めても、子どもたちがこの転換期をフェアに生きる力を育むために「演劇」の力をもっと活用する方策があるのではないかと思える。それは筒井が言うとおり超高齢化、人生100年時代によりよく生きるためのスキルともなるのだから。


老人と子供のポルカ

 

老人の美学 (新潮新書)

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  • 作者:筒井 康隆
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2019/10/16
  • メディア: 新書
 

 

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー