プログレッシブな日々

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老人と子供のポルカ〜筒井康隆『老人の美学』とブレイディみかこ『僕はイエローでホワイトで、ちょっとブルー』雑感

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筒井康隆『老人の美学』とブレイディみかこ『僕はイエローでホワイトで、ちょっとブルー』。年明け早々にこれら話題のベストセラー本2冊を読んでみた。

 それぞれ同じ本を読んだ人とじっくり語り合いたくなる良書だが、老人と子供という人生の両端について書いたこの2冊を続けて読んだ後に浮かび上がったキーワードは「演劇」あるいは「演じる力」だった。

 

帯に「最初で最後、最強の人生論」とうたわれている『老人の美学』で筒井はいつになく神妙な顔をして老後を語っているように見える。テーマが筒井自身に重なることでもあるからだろうが、ただし通読するとそこここにブラックな嗤いが置き石のように配置され、クスリとすることになる(読んでもそうしたブラックに気付かない人もいるかもしれない)。

 

本書のコンセプトは「どのような老人にせよ、自分が理想とするような老人には、モデルとなる人物や思想が存在するはずである」(『老人の美学』一 人生の時代区分と老人年齢の設定 より)ということになる。そのスタートラインから自らの見聞、経験、あるいは作品内容を交えながら「老人が昔の知人と話したがる理由」「ちょいワル老人はなぜか魅力的だ」『美しい老後は伴侶との融和にあり』「『老人は汚い』と言われない為に」などという論点(それぞれ章タイトル)に敷衍されていく。

そこで必要とされるのが理想を体現するための「演技力」だ。


ちょいワル老人として好かれるためには、ある種の演技力が必要になってくるが、慣れない人が下手にやると鼻につき、嫌われてしまう。(中略)その点、小生がずいぶん得をしているのは演技の勉強をしてきたことである。これまでにも何度が言ったことだが、演技の訓練というのはどんな職業の人にも役に立つから、機会があればそれを受けておくべきだろう。しかし老年になってからでは遅いかもしれない。(『老人の美学』六 ちょいワル老人はなぜか魅力的だ より)

 

 筒井が学生時代から演劇に深く関わってきたことはよく知られているが、老人になってあらためて「演技力」の効用を身に沁みて実感しているようだ。サラリーマンだって、自分の役柄を演じきるスキルとメンタルが仕事の出来不出来を左右するだろうし、若い時代の(年取ってもか)恋愛の局面なんてまさに狐と狸の化かし合いである。

 

その「演技力」が学校教育の中で重要な位置を占めているという話が出てくるのが、『僕はイエローでホワイトで、ちょっとブルー』だ。英国ブライトン在住のブレイディみかこさんの息子は、たまたま入学できた良家の師弟が通うカトリック公立小学校から、本人の意志でかつては荒れていた「元底辺中学校」に進学した。その中学校では校長や先生たちの努力で多様性教育、表現教育を前面に押し出し、底辺から脱して、生徒たちが主体的に勉強のほかにバンド活動や演劇活動などに取り組むカリキュラムと指導体制が整えられている。そしてシェイクスピアの国だけに、この中学校に限らず英国の中学校教育には「ドラマ(演劇)」という教科が組み込まれており、中学教育終了時の全国統一試験の受験科目の一つにもなっている...という話題が出てくる。

とはいえ、別に英国は俳優を大量育成するために学校で演劇を教えているわけではない。日常的な生活の中での言葉を使った自己表現能力、創造性、コミュニケーション力を高めるための教科なのである。

(『僕はイエローでホワイトで、ちょっとブルー』 2.「glee/グリー」みたいな新学期 より

 

英国教育の演劇重視のスタンスは幼児教育から始まっているそうだ(著者は保育士でもある)。日本でも幼稚園の学芸会で劇をやったりするが、協力して物事に取り組むことを重視しているわが国のそれと英国の演劇教育は狙いがずいぶん違っている。

笑っている顔は、嬉しいとき、楽しいときにする表情であり、怒っている顔は怒りを感じているときにする表情なのだと言うことを幼児に教え込むのだ。壁に様々な表情をしている人々のポスターを貼って、「これはどんな顔?」と繰り返し質問し、「じゃあ、みんなもこの顔できる?」と同じ表情をさせてみる。そこから今度は「では、みんなはどういうときにこんな顔をしたい気分になる?」と話を展開して、「気持ち」と「それを表現すること」、そして「それを伝えること」はリンクしていると教え、自分の感情を他者に伝えられるように訓練するのだ。

(『僕はイエローでホワイトで、ちょっとブルー』 2.「glee/グリー」みたいな新学期 より)

 

「ありのままの自分」というか、「素直さ」「正直さ」に重きが置かれるわが国の〝国民性〟を鑑みると演技者でもない者が演技をすることへの抵抗感があるのかもしれない。演技とはあくまでフィクションの中での振る舞いであり、現実社会で演技することは不誠実だとかなんとか....しかしそういう社会に限ってホンネとタテマエ的な演技がデフォルトとなっているのだからなにをかいわんやである。ラテン民族のカトリック国で性倫理が厳しいことと同じなのかもしれない。


一方で英国の中学校には「ライフ・スキル教育」という科目もあり、こちらはいわゆるシティズンシップ、すなわち社会や政治の仕組み、法や権利の提示するコンセプトを当事者=自分の問題として考える教科になっている。英国の子どもたちは小学生から「子供の権利」について繰り返し教えられるらしい。中学生ともなるとEU離脱テロリズム移民問題LGBTなどについても考察することになる。日本では意識高い系の名門私立中学校ではこれぐらいのことをやるかもしれないが、これは元底辺中学校を含む公立中学校の話なのだ。英国の初等中等教育が必ずしもうまくいっているわけではないし、日本では考えられない破綻もあることは承知しているが、この演劇と社会的リアリズムの導入はうらやましく感じる。

 

昨秋、いじめ問題への第一人者である群馬県高崎市教育長の講演を聴いた。元高校教員の彼はいじめ問題への取り組みを始めた頃に英国の学校に視察に行った。英国の学校にもいじめは存在したが、日本とは決定的に異なる点があり、それはいじめの当事者ではなく「傍観者」の問題だ。講演では、日本に特有な「いじめの4層構造」を指摘していた。すなわち「被害児童生徒」を中心に「加害児童生徒」、周囲で煽り立てる「観衆」、さらにその周りにいる「傍観者」という構図だ。「この構図をなくさない限り、いじめは減らない」。日本のいじめはエスカレートするのも、長期化するのも「傍観者」がいてこそだというのだ。「傍観者」とは何か?それは事態の推移をじっと眺め、そこで感じた感情を押し殺し、「演技」を放棄した人々の群れであろう。すなわち「観客」にも劣る存在だが、それが多くの観客が集まっているように見えれば、劇を主演しているつもりのいじめの加害者は活気づく。それがきわめて稚拙で間違った演技であったとしてもだ。かくして学校を舞台にいじめのロングランが繰り広げられる。

 

日英の国情や国民性の違いを含めても、子どもたちがこの転換期をフェアに生きる力を育むために「演劇」の力をもっと活用する方策があるのではないかと思える。それは筒井が言うとおり超高齢化、人生100年時代によりよく生きるためのスキルともなるのだから。


老人と子供のポルカ

 

老人の美学 (新潮新書)

老人の美学 (新潮新書)

  • 作者:筒井 康隆
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2019/10/16
  • メディア: 新書
 

 

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー