プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

歴史の行方を決める「兄弟の争い」〜観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)雑感

 

観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)

観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)

 

日本の歴史の転換点には「兄弟の争い」がある。まず最初は実質的な日本建国時の天智・天武の確執(およびそれに起因する壬申の乱)で、次に長岡京をめぐる桓武と早良の確執があった。その後摂関家内部での兄弟の争いなどもあったが、やはりメルクマールとなるのは鎌倉幕府成立時の源頼朝義経兄弟の悲劇じゃないだろうか。そして観応の擾乱足利尊氏、直義兄弟の確執である。どの兄弟の争いでも、双方、もしくは片方は兄弟との不和を心から望んではいなかったということで、周囲の政治状況と自らの立場(天皇、将軍など)から泣く泣く相手と対立するという構図が多いように思える。

足利兄弟の場合、特に双方が相手のことを憎んでいたとは思えない。歴史の素人には詳しすぎるほどのディティールを網羅して説得力十分の本書は、その辺りの機微も踏まえて描かれていると思う。定説に対してもしっかりした裏付けを元に反駁していくスタンスが小気味よい。特に著者は高師直・師泰兄弟の再評価に熱心であるような印象を持った。後の「応仁の乱」(これも将軍家や管領家などの兄弟の闘い)と違って細川顕氏佐々木道誉足利直冬桃井直常などキャラが立つ人物も多く登場する。個人的には著者による〝婆娑羅大名〟佐々木道誉の伝記本を読みたいと思った。

明治維新後の征韓論をめぐる西郷・大久保の争い(帰結は西南戦争)も本質的には兄弟の争いじゃないかと僕は考えている。

今は亡き釣り人のために。


AMAZING GRACE for Mr.T

サクラマス釣りの男性流され死亡 福井市の九頭竜川、1人は救助 | 事件・事故 | 福井のニュース | 福井新聞ONLINE

 

昨夏、友だちのIさんに紹介された大阪のTさんと言う知り合いの釣り人が、先月、サクラマス解禁で訪れていた九頭竜川で亡くなった。 たった一度、酒席でご一緒して、フェイスブックでほんのりやり取りしていただけの私でも衝撃を受けたのに、付き合いが深かったIさんが受けたショックの大きさは想像するに余りある。


大人げなく落ち着きのない僕やIさんと違って、Tさんは大人の嗜みを備えた釣り人だった。亡くなった時の釣行でも慎重に慎重を積み重ねた準備をされて臨み、行動されていたと聞く。それでも不幸な事故は起きるのだ。自然を相手に遊ぶとはそういうことだ。あらためて思い知らされた。

Tさんのご冥福をお祈りするばかりである。そして無性に釣りに行きたい。

『書店主フィクリーのものがたり』(ハヤカワepi文庫/ガブリエル ゼヴィン)を読んだよ。

書店主フィクリーのものがたり (ハヤカワepi文庫)

書店主フィクリーのものがたり (ハヤカワepi文庫)

 

ハヤカワepi文庫にハズレなし! 本好きにとって最高の小説だ。翻訳もいい。
文庫本裏カバーの梗概は以下の通り。

《島に一軒だけある小さな書店。偏屈な店主フィクリーは妻を亡くして以来、ずっとひとりで店を営んでいた。ある夜、所蔵していた稀覯本が盗まれてしまい、フィクリーは打ちひしがれる。傷心の日々を過ごすなか、彼は書店にちいさな子どもが捨てられているのを発見する。自分もこの子もひとりぼっち――フィクリーはその子を、ひとりで育てる決意をする。》

各章を、著名な短編小説のタイトルと主人公フィクリーの作品に対するコメント付した「扉」として始める構成も楽しい。フィクリーと出版社の女性営業とのラブロマンス、死んだ元妻の姉とその夫の不穏な関係、フィクリーによって本好きになる気の良い警察署長ランビアーズとの関係、養女マヤに芽生える小説家としての才能…...一見ほのぼのとしながらも、一貫して不穏な死をめぐる葛藤と悔恨で通底するストーリーテリングは見事だ。最後のハッピーエンドの納め方も悪くない。

主人公はインド系アメリカ人、棄てられていた養女はアフリカ系(と白人のハーフ)。そして作者がロシア系ユダヤ人と韓国系の父母を持つことを念頭に読み直すと、あるいは作品の世界観がより深まるかもしれない。

 

梅原猛『海人と天皇 ~日本とは何か~』再読

 

海人と天皇〈上〉―日本とは何か (新潮文庫)

 先日亡くなった梅原猛は、イマジネーション豊かな古代史への視線で歴史のタブーに挑んできた。聖徳太子柿本人麻呂の怨霊を古代史に持ち込んだその力業は歴史学的には問題が多いのだが、古代史の文脈にそれまでになかった視点を提供した偉業には違いない。『海人と天皇』は、今日に続く象徴天皇制というテーマに切り込んだ梅原古代史の総決算的な著作である。昔、図書館で借りて読んだが、彼の訃報の直後にAmazonでポチって古本を取り寄せた。

 

 梅原によれば、象徴天皇制律令国家の成立にはじまる。本来、律令は皇帝が中央集権的独裁権力をふるうための中国(隋・唐)の制度である。平安時代摂関政治院政による天皇の名目化は、律令制の乱れの結果と語られてきた。しかし、梅原はそれは違うと考える。日本の律令制は中国の制度を忠実に移入したのではなく、天皇権力を骨抜きにする改変が加えられていた。そしてそこから日本的な権力分散の制度の仕組みがスタートしたと梅原は考える。仕組みの設計者は女帝の時代の演出者・藤原不比等。本書では不比等の死後まで及ぶ六人の女帝それぞれの役割と背景を検証し、不比等の“娘”と記録に残る聖武帝の母・宮子が、実は紀州の海人の娘だったという道成寺に伝わる伝説に基づいた大胆な仮説によって、その数奇な生涯をあぶりだしていく。

  宮子の死後には、不比等の力業に押しつぶされたような息子の聖武帝と孫娘の孝謙・称徳帝によるエピローグというにはあまりにドラマチックな後日談が用意されている。道鏡事件にも独自の見解を表明し、孝謙・称徳帝の密通の汚名を濯がんとする梅原の愛に満ちた営為には頭が下がる。それが歴史学的に正しいかといえば、やはり大きな疑問符はつく。しかし、説としては実に魅力的だ。「古代史なんてどうせ正確なところはわかりっこないんだからそれでいいじゃいか」という気にさせられるのだ。

 

 天皇を名目上の絶対者とする藤原不比等が創案した政治権力メカニズムは、平安時代摂関政治院政として確立され、武家政権における皇室・公家権力の棚上げ、そして近代の明治憲法や現行の日本国憲法の象徴天皇でも踏襲されている。付け加えれば武家政権でも北条氏執権政治や室町の管領政治、江戸時代の老中合議制などによって、実質的に将軍権力の棚上げと権力分散がおこなわれていたように、日本的権力の伝統様式といってもいいくらいだ。現在の安倍晋三首相はそういうことを無意識下に理解して、傀儡としての自分を上手く演じているように思える。そしてメカニズム創案者・藤原不比等は父親の鎌足以上に史料からその素顔が見えてこない人物だが、その不鮮明な行跡こそが裏権力に徹する彼の強い意志の証拠と考えることはあながち間違いではないように思える。

私には「万世一系」などという軽薄な絵空事より、世紀を超えた「傀儡権力メカニズム」の方が日本という国の“凄み”を表していると思うのだが、いかがだろうか?

 

海人と天皇〈上〉―日本とは何か (新潮文庫)

海人と天皇〈上〉―日本とは何か (新潮文庫)

 

 

海人と天皇〈下〉―日本とは何か (新潮文庫)

海人と天皇〈下〉―日本とは何か (新潮文庫)

 

 

アンプラグドってみました。


アンプラグドてみました。「JJFブルース」

エレキをアンプにつながない正統派アンプラグドです。テレキャスター・シンラインはこういう時に便利だな。

アゴタ・クリストフ『悪童日記』『ふたりの証拠』『第三の嘘』にやられる。

悪童日記 (ハヤカワepi文庫)

 

読もう読もうと思ってなかなか読めない本を出張の機会に読むことが多い。出張中はほとんど残業というか、夜の用事がないのでむしろ読書が捗るというわけだ。

 

今回はこのアゴタ・クリストフ著『悪童日記』、そして続編である『ふたりの証拠』と『第三の嘘』の三部作。もう10年近く前から読もうと思っていて、その間に映画化もされた。

悪童日記(2019年1月26日記※再掲)

悪童日記 (ハヤカワepi文庫)

悪童日記 (ハヤカワepi文庫)

 

 

<大きな町>に住んでいた母親が双子を連れて<小さな町>に住む実母(双子にとっては祖母)のもとを訪れ、二人を託す。夫を毒殺したという噂がある祖母は魔女と呼ばれており、不潔で、吝嗇。子供に対しても働かない限りは食事を一切あたえない。祖母の家の部屋には占領軍の将校が下宿している。隣人には兎口の女の子と目と耳が不自由らしきその母がいる。生と死、さらに性の不穏な匂いがする中を双子たちは才覚を発揮し、協力しながら逞しく生き抜いていく。そして〈解放者〉たちの到来….

 

 

戦時下と戦争が終わった後のシビアな状況を生き抜く双子の男の子の物語。舞台となる国や街の具体名は出てこないが、おそらく作者が子ども時代を過ごしたハンガリーオーストリアとの国境付近の街だろう。といっても反戦小説ではないと思う。原題のLe Grand Cahierというのは「大型のノート」というような意味で、小説そのものが男の子たちが自分の日常を日記のように記した短い断章(文庫本で4~5ページ)が重ねられて物語が進行する。日記にはわかりやすい叙情や主観が一切見られない。二人は作文に当たってひとつのルールを厳格に守る。それは「作文の内容は真実でなければならない」というルールだ。出来事がその起きたとおりにたんたんと記される。….はずなのだが、読者は読む進むにつれていつの間にか行間のドラマのうねりに翻弄されていく。悲惨な出来事が連続するにもかかわらず、最後には爽快感さえ感じる不思議な読後感。見事としかいいようがない小説だ。Le Grand Cahierは「偉大な記録」とも解釈できるかもしれない。

 

 

作者はハンガリー動乱の際に夫と西側に亡命した女性で、詩や劇作を同人誌に発表するなど文学活動に勤しみ、母語ではないフランス語で書いたこの作品が初めての小説作品。2011年に亡くなるまで三部作の他、やはりフランス語による長編と短編集の2冊を出している。

もうほんとうに、今まで読まずにいて大後悔。春までに出張案件が続くので、続編2作も読まねばなるまい…。

 

『ふたりの証拠』(2019年2月4日記)

ふたりの証拠 (ハヤカワepi文庫)

ふたりの証拠 (ハヤカワepi文庫)

 

 

というわけで2作目をKindle版をダウンロードして読み始めたら止まらなくなり、途中、録画したテレビを見たりしたが、夕飯前に読了。まいった。前作で一人故国に取り残された双子の片割れが、オトナになるプロセスを三人称で描いている。前作『悪童日記』が一人称の断章60編で構成された作品だったので、叙述スタイルはまったく変えており、しかも名無しだった登場人物に名前が与えられている。双子の片割れはリュカ(LUCAS)、国境を越え西側に行ったのはクラウス(CLAUS)。なんとアナグラムな関係。リュカは社会生活を営み、子どもを育て、女と寝る。最後の8章で胸が引きちぎられるような悲劇。そしてエピローグで時間が早回しされ、読者は時空の果てに放り込まれ途方に暮れる。

完結編である次作『第三の嘘』のタイトルに恐ろしい予感がするばかりである。すぐに読まねばなるまい…。

 

『第三の嘘』(2019年2月12日記)

第三の嘘 (ハヤカワepi文庫)

第三の嘘 (ハヤカワepi文庫)

 

 

というわけで『第三の嘘』Kindle版をダウンロードして読み始めたら止まらなくなり、たちまち読了してしまった。またもや意想外の展開だが、いや実はこうなるんじゃないかという予感はあった。そしてなぜこの三部作が僕の心を鷲掴みにしたかということも、この完結編を読んでよくわかった。僕は小説に関しては基本的に純粋に作品論的にしか語りたくないが、どうしてもそうはいかない小説もある。この作品はその一つだ。

ざっくり言えば、この三部作は故郷の土地と家族と言語からむりやり引きはがされた者が、フィクショナル奈世界に救いを求めて「嘘」を構築していく話である。主人公たちは4歳にしてそうした憂き目を見る。主人公の双子「リュカ」と「クラウス」は、僕にとって 村上龍コインロッカー・ベイビーズ』における「キク」と「ハシ」、大江健三郎万延元年のフットボール』の「蜜三郎」「鷹四」に比定したくなる存在だった。

そして私自身も4歳の時に親兄弟と家からしばし引きはがされて、フィクショナルな物語=嘘の世界に救いと楽しみを求めていた経験がある。幸い私の場合は周囲には好意と同情があふれていたし、それはそれほど長い期間ではなかった。おかげで嘘の世界に拘泥せずにすんだが、振り返ってみるとやはり何らかの心の傷は負っているだろう。それが私の個性の一部分でもあるわけだが。

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というわけで今回、この三部作を読みながら、私は自分の子ども時代と現在を頻繁にタイムスリップしていた。それはビルから身を躍らせるようなスリリングな経験であり、深い悲しみと悔恨を閉じ込めた柔らかいカプセルをつつくようなもどかしい時間を過ごすことでもあった。母の実家に近い長野県のいろんな町を旅しながら読んだということも、得難い思い出になった気がする。小説に関しては、すれっからしになっている私だが、久しぶりに自分の心の柔らかい部分をさらけ出しながらの読書体験となった。

橋本治が死んで、『蓮と刀』が残された。

 

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蓮と刀

蓮と刀―どうして男は"男"をこわがるのか? 橋本 治/作品社 (1982/05)

 

 

橋本治の死に、ジョン・レノン伊丹十三デヴィッド・ボウイの死と同様に、重いボディーブローをくらったような気分でいる。何を書いたらいいのかわからないので、ほとんど自動書記的に、つれづれなるままに。

高校時代に『桃尻娘』に歓喜した僕が「この人はただものではない」と心から思ったのは、少女漫画評論集『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』と批評的エッセイ集『秘本世界生玉子』を読み、さらに後者 に収録されていた「ソドムのスーパーマーケット」を1冊に展開させたと思しき、この『蓮と刀』を読んだからだった。

『蓮と刀』は1982年初版。サブタイトルに「どうして男は“男”をこわがるのか」とあり、あとがきで筆者は「どうして男は“自分”をこわがるのか」と語る。この本を読んで、僕は「そうか(桃尻娘シリーズの)おかまの源ちゃんは橋本さんだったのか」と悟った。今より同性愛に対するタブー意識は強い時代、筆者は相当の覚悟と意気込みで本書を書いたと思われる。読者である男たちに「男たちよ、こわがるな。布団はしいたぞ、さあ寝よう!」と呼びかけてもいる。

冒頭に置かれた二葉亭四迷が試行錯誤した口語文体論から、それこそおかまの源ちゃんが憑依したようなホモ論になだれ込むが、第2章で繰り広げられるフロイトユング、フロムなど心理学・精神分析の徹底批判がこの本のハイライトの一つだろう。

河合隼雄ユングを援用しながら村上春樹など作家・芸術家の自尊心をくすぐったが、橋本治はいわば美学的、倫理学的視点から心理学の迷妄を厳しく糾弾する。始祖であるフロイトは「おとうさんがこわい」男の子で、ユングやフロムなどはほとんど魯鈍扱いだ。日本のメディア業界、文学業界、クリエイティブ業界は精神分析が大好きだから、橋本が孤高の存在となることは避けられなかったし、この本のおかげで僕は心理学・精神分析とは一定の距離を置いて接することができるようになった。

そして土井健郎『甘えの構造』の批判を通して、橋本ならではの「おじさん」概念が提示される。内部に子供を抱えているおじさんは自分に無理をしておじさんの振りをしなければならない。外見だけはおじさんになっても幼稚な心を抱え続け、知的には思春期から成長していない。おじさんは自分が無理をしているから他人にも我慢を要求する。そんなおじさんのまわりにいてもつまらないから、まっとうな人は逃げ出すが、逃げられなかった人は同化して自分も抑圧的なおじさんになる……なんだおじさんになった今こそ、この件を十全に理解できるじゃないか!「男は女に負けたくない。負けられない。なぜなら、女に負けたら男はインポになるから」。セクハラ、パワハラ、LGBTなどについて盛んに議論されるようになった今こそ、この本が書かれた真の意義が理解されるようになったと思える。しかし単行本はもとより、後年の河出文庫版も絶版のようだ。

 

自在な文体と相まって縦横無尽に領域を横断しつつ最終的に全部つながってるところがこの本のすごいところで、この頃の橋本の文体のキレ具合はとんでもない。文体そのものが思想であり、卓越した世界観となっている。90年代以降の橋本の文章にはそのキレ味はなくなっているが、それは僕には、橋本が完全な孤高を棄てて、誰かのために文章を紡ぐようになったからだと思える。しかし世間に向けた怒りを含んだ毒や「テメエが自分の頭で考えろよ!」という叱咤は最後までやむことはなかったと思う。それはジョン・レノンの最後のインタビューでもアピールされていたことでもある。

蓮と刀―どうして男は“男”をこわがるのか? (河出文庫)

蓮と刀―どうして男は“男”をこわがるのか? (河出文庫)