プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

シェイクスピア『ジョン王』は意外とおもしろい

シェイクスピア全集32 ジョン王 (ちくま文庫)

シェイクスピア作品全訳という偉業を達成された松岡和子さんの昨年の講演を聞いて、感銘を受けてから、ちびちびとシェイクスピア作品を既読を含めて読んでいます。松岡さん以外の新訳にも寄り道しているので死ぬまでにシェイクスピア全作品を網羅できるか自信ありません。この『ジョン王』は、高校で世界史をやった人ならご存じの「マグナカルタ」を認めざるを得なくなったちょっと情けない王様。シェイクスピア作品の中ではマイナーな部類で僕も今回初めて読みましたが、案外と面白くて驚きました。イングランドとフランス両陣営の争いがストーリーの核ですが、この争いを丁々発止の「舌戦劇」としてまとめ上げたシェイクスピアの手腕を楽しむ作品です。
 この松岡訳は、2020年6月に予定されていた埼玉芸術文化振興財団による彩の国シェイクスピアシリーズ第36弾公演のために翻訳されたもので、新型コロナウイルス感染拡大よって公演は中止となりました。しかし今年1月にBunkamuraシアターコクーン、今月は埼玉会館で念願の上演が実現しました。キャストは演出も担当し今回の講演時津限にも尽力された吉田鋼太郎小栗旬らで女性役もみんな男が演じているそうです。

 

NETFLIX『舞妓さんちのまかないさん』が素敵すぎる。


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仕事が立て込んでいるにもかかわらず、あまりにも魅力的なドラマで、先週Netflixで公開された全9話をすべて観てしまった。“総合演出”として是枝裕和監督がクレジットされ、各エピソードは是枝監督単独を含めた4人の監督が交代で、もしくは是枝監督とのペアで担当している。是枝監督は脚本も一部担当されているようだ。


この映画はとにかく映像が素敵すぎる。舞妓さんの生活の場、お座敷、京都の町並みと人々、そしてまかない料理……あらゆるシーンを静止画として切り取って部屋に飾っておきたいほど美しい。詳しくは知らないけど撮影スタッフ、美術スタッフも相当の手練れが揃っているのだろう。音楽は菅野よう子で、美しい映像を際立たせる音の背景づくりはさすがの手腕だ。

そして演技、演出の人物造形の確かさ。中学卒業後に青森から出てきた主人公の二人の少女を含む登場人物が、実にナチュラルに動き回って物語が進んでいく。主人公の二人がキャッキャと笑いあう、先輩の舞妓さんたちのガチャガチャしたり、まったりしたりの普段の姿、舞妓・芸妓を見守り支える大人の男女たち……実にナチュラルに人々が描かれ、それぞれが画面の中で思い、考え、行動する。トップ芸妓の橋本愛も息を呑むほど美しい。それでいてホラー映画オタクであるという映画ならではのキャラクター設定が楽しい。

主人公の二人のあまりに自然な演技とそれを支える人々の「引き」の演技がとにかく間然するところがない。ここには民放テレビドラマでおなじみの大根役者は一人もいない。おそらく京都ネイティブ、祇園での遊興経験者の視聴者でも、この映像世界に違和感を覚えないのではないか。

原作のマンガも読み始めたが、こちらも素敵な作品で、映画はその作品世界を大切にしていることがわかる。同時に映画には是枝監督によるオリジナル重要登場人物が3名登場する。松坂慶子の先代おかあさん(置屋のおかみさんのこと)、松岡茉優の関西のおばちゃんノリの出戻り芸妓、蒔田彩珠の当代おかあさんのツンデレ高校生娘。この3人が作品世界の奥行きをぐっと広げて、是枝色を濃厚に感じさせてくれるのだ。松岡茉優は新境地開拓と言えるかもしれない。

 

既存の当代おかあさんの常盤貴子と著名建築家の井浦新とのプラトニックな恋も映画ならではの味わいを付け加えている。(井浦新が講師を務めている大学が、昔、広報誌制作の仕事で通ったことがある京都工芸繊維大学なのがちょっとうれしかった)。そしてまた主人公たちの置屋に併設されたバーのマスターであるリリー・フランキー常盤貴子に密かに片思いしていて、この「片思い」というのも他の登場人物を含めて作品の重要なモチーフとなっている。次のシーズンでは様々な「片思い」がストーリーを動かしていくのではないか?

そうそう先代おかあさんの松坂慶子の初恋のエピソードもあり、その相手は実在の歌舞伎役者である坂東彌十郎なのだ。その彌十郎が本人役で出てきて、松坂との60年ぶりの再会を果たし、実は両思いであったことをあらためて確認した微笑ましくも感動的なシーンもあった。その際、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』出演中の彌十郎のところには脚本打ち合わせのために三谷幸喜が訪れており、彼も本人役でドラマに出演。置屋のバーで舞妓さんから「うちらも『鎌倉殿』に出たーい!」とせがまれて、「じゃあ、出ちゃおうか、みんな出ちゃおうか」とおやじノリで応じるシーンには笑った。

とつらつら、一気に感想を書いてしまったが、一度観ただけではこのドラマを十分味わえた気がしない。何度も繰り返し観ながらセカンドシーズンに備えたいと思う。

 

 

今年最後の読書:『JAMJAM日記』(殿山泰司)

JAMJAM日記 (ちくま文庫)

 


「ほとんどの日本国民同様、おれも気が付いた時には、殿山さんの顔を知っていた」と本書の巻末解説で山下洋輔が書いている。山下よりずっと年下の私も同じである。物心ついた時には殿山さんの顔を知っていた。子供の心に深く刻まれる抜群感の存在感を有する怪優だ。

本書はその殿山さんによる1975年11月から1977年3月までの約1年半の日記で、しばしば当時世の中を騒がせていたロッキード事件の話題が出てくる。僕はこの本を単行本発行時(高1ぐらい?)に知っていた。まだミニコミに毛が生えたぐらいだった『本の雑誌』で評者が高く紹介していて、いつか読みたいものだ、と思っていたのだ。それが還暦過ぎて実現した。


本書の中身は殿山さんの身辺雑記。ジャズ鑑賞とミステリーなどの読書、そしてもちろんTVや映画、舞台の仕事について、ざっくばらんすぎる文体で書かれている。今日日のSNSだったら炎上しそうな話題もしばしば出てくる。読み始めてすぐに気づいたが、1915年生まれの殿山さんは、この時、ちょうど今の私と同じぐらいの年齢だ。なにかのめぐりあわせか? 日記の中にはしばしば殿山さんが尊敬する俳優、映画監督などの死が出てくる。そうだ今なお私も好きな表現者が次々に死んでいくというフェーズに入っている。ジャン・ギャバンが死んだときの殿山さんの取り乱し様を読むと、ジョン・レノンルー・リードデヴィッド・ボウイが死んだ時の自分を思い出す。

 

俳優や映画監督仲間との交友以外に田中小実昌野坂昭如金井美恵子など文学関係者との交友ぶりも楽しい。ずっと年下の金井美恵子に「キャンキャン」と子犬のように懐く殿山さんはさすがである。ミステリーの好みはハードボイルド系なのだが、日本の作家では西村京太郎を高く評価している。


解説で山下洋輔も言っているが、殿山さんの文体は自由気ままでいて、ジャズマニアらしく独特のリズム感がある。山下洋輔のジャズ文体や椎名誠など『本の雑誌』が広めた“昭和軽薄体”もそのルーツは殿山さんに(もうひとつは筒井康隆)ありそうだ。

 

ちなみに殿山さんのジャズの好みはフリーなどの前衛ジャズである。この日記を読むと、日仏会館、郵便貯金ホール、厚生年金会館などのホールのほかに銀座界隈のライブハウスなどにも、仕事の合間を縫って足しげく通っている様子が記録されている。ライブの評価は辛口だが、感動したステージについてはおそらく当のミュージシャンが読んだら感涙にむせぶのではないかというほどの賞賛の言葉を投げかけている。

殿山さんは単行本発行の12年後に73歳で亡くなった。一度お話をしてみたい方であった。実は私の父方の祖父にちょっとだけ似ているんだよね。

『無想庵物語』(山本夏彦著)を読んだ。

 

 

無想庵物語 (中公文庫 や 19-19)



《芥川・谷崎に勝る博識で「日本のアナトール・フランス」と呼ばれ、文学的成功を願いながらも、無軌道な生活の末に失敗した作家、武林無想庵。その親友山本露葉の息子として、若き日にパリで生活を共にした著者、山本夏彦。無想庵と彼をめぐる人々について哀惜深く綴り始めた評伝はやがて、著者自身の青春の謎と絡まりだす……》

出版社によるこの紹介文が本書の全貌を簡潔に良く言い表している。小説家・翻訳者の武林無想庵は文学だけでなく、社会科学や自然科学領域でも専門家と高レベルの議論を交わせる博覧強記の士だが、生活者としては無能で絶望的なほど女にだらしない。さらに結婚した文子は無想庵が持て余す無軌道な女性で、欧州滞在時に浮気相手にピストルで撃たれる(生命に別状なし)。二人の間の娘も数奇な運命をたどる。

僕は高校生の頃に確か吉行淳之介のエッセイで無想庵の存在(というか奥さんの発砲事件)を知り、長年どういう人だろうと頭の隅に引っかかっていた。今年、この文庫が出たので読んでみたが、なるほど確かになんとも言い様がない人物だ。驚くべき学識ながら現在に残る彼の業績はほとんどない。山本夏彦の突き放したような、それでいて節々に哀切が感じられるぶっきらぼうで、無碍な文章も味わい深い。僕は無想庵も、夏彦みたいなひとも、どちらも大好きなんだ。

 

西荻でル・クレジオの短編集と約40年ぶりに再会する。

 

 

 

金曜日に仕事で出かけた西荻で、駅近くの古本屋を覗いたらル・クレジオの短編集『ロンド その他の三面記事』の単行本を見つけて、懐かしさのあまり思わず買ってしまった。実はこの本、大学4年のゼミで扱った作品で、当時、ル・クレジオの最新作だったのでまだ翻訳が出ておらず、ゼミの前日はうんうん唸りながら辞書を引き引き翻訳していたのだった。左はそのゼミで使ったペーパーバック本で、本文には40年前の自分による鉛筆の書き込みがたくさんある。本書訳者の一人豊崎光一はル・クレジオの翻訳者として有名で、当時僕が通っていた大学学部の教授だった(ゼミの教授とは違う)。その時のフランス文学科の教授陣はわりとラテン気質的に気さくで庶民的な方が多かったように記憶しているが、豊崎先生は決して冷たいわけではないのだけれど独特の孤高のオーラみたいなものが漂っていた気がする(まあ、ここらへんの印象は人によるかも)。

僕が学部を卒業して4~5年ぐらいして豊崎先生は50代で亡くなられた。本書には12作品収録されているが、豊崎先生が訳したのはそのうち4作品のみで、いずれも文芸誌『海』が初出だそうだ。今、日本語で読みかえしてみると、ストーリーの細部はまったく忘れ去っているし、学生時代に原文で読んだ時とはかなり異なる印象を覚える。それは言語による違いなのか、はたまた読み手に横たわる40年という歳月のなせる技か? おそらく後者だろう。冒頭に置かれた表題作「ロンド」の若さ故の切迫と屈託は、20歳そこそこの私にとってはきわめて日常的に親しい感情だったが、今の私にとっては郷愁というフィルターなしには味わえないものだ。ル・クレジオはそうした時差を踏まえて、たとえば三人称の中に一人称が紛れ込むような神話的文体で時空を超えた三面記事的悲劇を紡ぎ出す。そう、この短編集は現代の悲劇をあぶり出す神話集なのだった。それにしても40年ってことは、当時生まれた赤ん坊がすでに不惑なのか。アタマがクラクラしてきた。

 

西荻でル・クレジオの短編集と約40年ぶりに再会する。

 

 

 

金曜日に仕事で出かけた西荻で、駅近くの古本屋を覗いたらル・クレジオの短編集『ロンド その他の三面記事』の単行本を見つけて、懐かしさのあまり思わず買ってしまった。実はこの本、大学4年のゼミで扱った作品で、当時、ル・クレジオの最新作だったのでまだ翻訳が出ておらず、ゼミの前日はうんうん唸りながら辞書を引き引き翻訳していたのだった。左はその学生時代に使ったペーパーバック本で、本文には40年前の自分による鉛筆の書き込みがたくさんある。本書訳者の一人豊崎光一はル・クレジオの翻訳者として有名で、当時僕が通っていた大学学部の教授だった(ゼミの教授とは違う)。その時のフランス文学科の教授陣はわりとラテン気質的に気さくで庶民的な方が多かったように記憶しているが、豊崎先生は決して冷たいわけではないのだけれど独特の孤高のオーラみたいなものが漂っていた気がする(まあ、ここらへんの印象は人によるかも)。

僕が学部を卒業して4~5年ぐらいして豊崎先生は50代で亡くなられた。本書には12作品収録されているが、豊崎先生が訳したのはそのうち4作品のみで、いずれも文芸誌『海』が初出だそうだ。今、日本語で読みかえしてみると、ストーリーの細部はまったく忘れ去っているし、学生時代に原文で読んだ時とはかなり異なる印象を覚える。それは言語による違いなのか、はたまた読み手に横たわる40年という歳月のなせる技か? おそらく後者だろう。冒頭に置かれた表題作「ロンド」の若さ故の切迫と屈託は、20歳そこそこの私にとってはきわめて日常的に親しい感情だったが、今の私にとっては郷愁というフィルターなしには味わえないものだ。ル・クレジオはそうした時差を踏まえて、たとえば三人称の中に一人称が紛れ込むような神話的文体で時空を超えた三面記事的悲劇を紡ぎ出す。そう、この短編集は現代の悲劇をあぶり出すネガフィルム的な神話集なのだった。それにしても40年ってことは、当時生まれた赤ん坊がすでに不惑なのか。なんだかアタマがクラクラしてきた。