プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

『だれがコマドリを殺したのか? 』を読んで、大阪万博の年にイーデン・フィルポッツと出会ったことを思い出す。

だれがコマドリを殺したのか? (創元推理文庫)

だれがコマドリを殺したのか? (創元推理文庫)

 

 イーデン・フィルポッツの名を知ったのは、1970年、大阪万博の年だった。僕は8月上旬に兵庫県伊丹市にある祖父母が同居する伯父の家に泊まって、一緒に来た父と大阪・吹田市千里丘陵にあった万博会場に3日間ほど通った。
 朝早くで掛けて夕方には伯父の家に戻り、晩ご飯とお風呂に入った後、NHK総合の「銀河ドラマ」という連続テレビドラマ枠を見ていた。で、ちょうど僕が滞在していた期間に放映していたのがフィルポッツ原作の『闇からの声』だったのだ。
 古いホテルに滞在中の老探偵が聞いた闇の中から響く子どもの悲鳴。しかしその声の主はすでに亡くなっていた……おどろおどろしいムードにたちまち惹かれた。老探偵を演じていたのは当時水戸黄門役者でもあった東野英治郎。彼の重厚な演技も印象的だった。僕がフィルポッツの原作を手に取るのは、その後5年以上を経てからだったと思う。

 僕はいわゆる専業の推理作家ではない、純文学や劇作家などの文学者の手になる推理小説が好物である。日本人作家だと坂口安吾福永武彦加田伶太郎)、戸板康二、そして「半七捕物帳」の岡本綺堂などである。

 推理小説、ミステリというモノはフィクションとしてはなはだ奇形である。それがいけないというのではない。その奇形を批評的にとらえられるかどうかで、小説作品としての面白さが定まると僕は考えている。「推理小説」「ミステリ」「SF」というジャンルを自明のモノとして書かれている小説作品はすぐ飽きる。その自明さに読者として付き合うのも2度3度で十分だからだ。その点、江戸川乱歩は、ミステリ実作者でありながら意識的に日本の推理小説と言うジャンルを批評家的な視点から構築していった。戦後の推理作家としての不振は、あまりにも批評家的なそのスタンスのせいだったかもしれないが。


 フィルポッツも英文壇の大家だが、『闇からの声』『赤毛のレドメイン家』といったミステリー史に残る作品を残している。彼は若きアガサ・クリスティーの隣人でもあり、才能を認めた彼女にミステリー執筆の手ほどきをしていたそうだ。
 『だれがコマドリを殺したのか?』は作品名こそ知っていたが未読だった。長らく品切れ状態だったらしい。先日、新訳が出ていたことに気付いて読んでみた。マザーグースの”Who Killed Cock Robin?”に因んだミステリーといえばヴァン・ダインの名作『僧正殺人事件』が有名だが、こちらの作品もなかなかのモノだ。一目惚れの純粋さを貫いた結果の悲劇という恋愛ドラマの構図で、英国人らしい底意地悪さが通底しているが、不思議と嫌みな感じはない。トリックはなかなか大胆なのだが、ある程度ミステリーを読み慣れた人なら、終盤種明かしの直前でそのからくりに気付くだろう。しかし、そうであってもストーリーを追う興味は減退しない。そこらへんはさすが小説のプロだ。全体として陰惨な事件で、苦い皮肉に満ちた話なのに読後感が爽やかなのも素晴らしい。フィルポッツを読んだことがないという読者には、著名な『赤毛のレドメイン家』よりこの作品をおすすめしたい。でも僕が一番好きなのはやはり『闇からの声』だ。