プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

『ボブ・ディラン解体新書』 再読。

ボブ・ディラン解体新書 (廣済堂新書)

ボブ・ディラン解体新書 (廣済堂新書)

 

2016年度のノーベル文学賞を受賞したボブ・ディラン。先日、今年の夏にフジロックフェスティバルで来日することが大きな驚きと共に報じられた(もちろん僕も驚きましたです)。

そして、ディランをめぐるここ数年の流れの中で「彼」がどういう発言をするるかを聞きたいと思った。彼とは本書の著者である中山康樹さんである。

そこで2014年に出た本書を書架から引っ張り出してきた。

中山さんは、本書以前に「ディランを聴け!!」という労作をものしている。ディランのキャリアの中で発表されたほぼ全曲・全バージョンを批評したとんでもない本で、そこには批評家の鋭い視線とファンとしての深い愛情がごった煮され、まことに良い味を醸し出されていた。「アホな子ほど可愛い」。そんな言葉が思い浮かぶ本だった。悪罵さえも愛情に満ちあふれている(そういえば著者によるビーチボーイズ本も同様の筆致で書かれており、ずいぶん楽しませてもらった)。

 

ところが本書では著者の辛辣な苦言が、読み手の口中に苦味となっていつまでも残る。
最近のディランがテーマである第1章では、あの9.11当日に発売された『ラブ・アンド・セフト』の歌詞の盗作疑惑が取り上げられる。盗作元である日本人医師・作家の佐賀純一氏はディランの剽窃をむしろ「光栄」だとして許した。その気持ちもわかる。そしてディランは〈フォークやジャズでは引用はあたりまえだ。伝統的な技法だ〉〈ちまちま文句をつけやがって、昔からそうなんだよ〉〈誰もやっていることだ〉〈そんなに簡単に盗用で作品が作れるなら、やって見せてくれ〉と開き直った。

著者は多くのファンにとって、こうした剽窃は一種の裏切り行為であるとディランを批判する。新作が発表されるたびにその原典探しが行われるような近年のディランを苦々しく吐き捨てる。ところが反面、そこら辺のパクリ野郎同様の扱いができないディランの「サウンド」と「視点」の天才性を認めざるを得ない。そのアンビバレンツが本書の冒頭に据えられているのだ。

まず引き裂かれた自己の傷口を見せてから、ディランその人を解体していく。本書に感じる苦みはそこに起因していると言えるだろう。なぜこの「近年のディラン」を冒頭に持ってきたか? 僕はそれが気になってしょうがない。冒頭の章以降は概ね中山節で書かれており、興味深く楽しく読めるが、少し気になる点もある。

以前から著者はディランをプロテストシンガーの枠内でしか捉えない音楽ジャーナリズムとファンの共犯関係に強く異議を唱えていた。本書でもそれは変わらないし、はっきり言明されているが、どこか「あきらめ」の境地にあるように思えるのだ。


本書が出版された1年後に中山康樹さんは亡くなった。僕はその事実を知っているので、彼が本書に込めた思いが、ほんとうに、ほんとうに、気になってしょうがない。日本人作家を盗作したディランのノーベル文学賞受賞を、中山さんはどのような言葉で評しただろうか。