信じる者は救われる...かも 〜『イエメンで鮭釣りを』雑感
- 作者: ポールトーディ,Paul Torday,小竹由美子
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 2009/04
- メディア: 単行本
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「あなたのジョーンズ博士にはコリンと一緒に釣りに行ってもらいましたよ。道路からすべてを眺めていたんです。あれは本物の釣り師だ、科学者であるだけでなく。あなたの選択には満足していますよ、ハリエット・チェトウォド=タルボット」
(『イエメンで鮭釣りを』ポール・トーディ 白水社 P100−101より)
『イエメンで鮭釣りを』は4~5年前に映画にもなった英国のベストセラー小説で、予想通り抜群の面白さだった。
そしてアルフレッド博士はハリエットを介してシャイフとも面会する。博士はアラブの大富豪の高潔な人格にすっかり感銘を受け、また釣り人同士としての友情を覚えて「イエメン鮭プロジェクト」へますます深くのめり込んでいく。妻や周囲の人々からあきれられるほどに。上の引用文はシャイフが初めてアルフレッド博士に会った時、ハリエットに漏らした発言だ。離れた場所から釣りをする姿を見て、その人物が信頼するに足りるかどうかを品定めをする……釣り人ならば思わずニヤリと頷くシーンだ。そういえば僕の釣り仲間に「一緒に釣りをすれば、その人がどういう人かはだいたいわかるね」と豪語する男がいたな。
中高年男の危機を、(わが国では不倫と称する)恋愛感情と釣り人的無謀さの勢いで乗り越えようとする不器用なアルフレッド博士への共感と、フライフィッシャーマンとしての連帯。僕はその二つを感じながら僕はこの小説を読んだが、別に釣りをしなくても十分以上に面白い小説だと思う。作者はもともと会社経営者で、敵対的買収によってオーナー企業を手放したことをきっかけでこの小説を書いたらしい。処女作とは思えぬ手練手管は人生経験と深い学識に裏打ちされたものだろう。訳文もリズムがあり読みやすい日本語で素晴らしい。ただし、翻訳者の女性は釣り(特にフライフィシング)にそれほど詳しくないらしく、フライフィッシャーマン的には「Fly Line」を「釣り糸」と訳すのは誤りだと思うし、翻訳者がそのことを理解できていればクライマックスのイエメンの川でのキャスティングシーンも、さらに迫力あるものとなったに違いない(参考)。また「ウミマス」ではなく「シートラウト」と表記して欲しいなど、細かい注文はいろいろある。しかし、全体としては釣りのことを勉強した痕跡も感じられ、良い翻訳と言えるのではないか。
本作を原作とする映画『砂漠でサーモン・フィッシング』は2011年に制作されたが、その時、すでに作者ポール・トーディは死病に冒されており試写を見ることができなかったそうだ。結局、2013年に亡くなっている。映画の方はまだ見ていないが、読んでいて情景が眼前にありありと浮かぶタイプの小説だったので、見たいような見たくないような....なんとなく躊躇している。小説では男だった首相官邸の俗物広報官が映画では女性になっているというところにやや興味をひかれているのだが。
映画『砂漠でサーモン・フィッシング』のワンシーン。スコットランドで釣りをするシャイフとアルフレッド博士....やはり、ちょっと見たいなこの映画。
不毛地帯から。
ストーリーは難解で、テーマも稚拙な不毛な作家だったが、ヘミングウェイやフィッツジェラルドなど同年代の作家の中では言葉を武器として戦うことのできる数少ない作家だった。
今年も村上春樹氏のノーベル文学賞受賞がささやかれているが、果たして結果はどうであろうか? 個人的にはボブ・ディラン氏に受賞して欲しいと願っているのだけど、あまり下馬評は高くなさそうだ。
小説に関しては日本人が日本語で書いた作品より、欧米の翻訳作品をたくさん読んでいる自分にとって、実を言うと日本人の文学賞受賞はピンと来ない。多くの作品を読んでいる数少ない(というかほぼ唯一の)日本の現代作家の一人が村上春樹であるのだけど『ノルウェイの森』以降はそれほど熱心な読者とは言えない。強いて言えば彼の短編小説の熱心なファンではある。
上の引用文は村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』の冒頭で語られる架空のアメリカ人SF作家であるデレク・ハートフィールドについての言及だ。それまでジャズ喫茶のマスターだった村上春樹が、このでデビュー作によって、異世界での勝負に打って出る覚悟のようなものが、この唐突な架空作家の登場に仮託されている。
デビュー直後、ヴォネガットやチャンドラーとの文体の類似が指摘されることもあったが、それは単に表現形式の問題に過ぎず、むしろそうしたものを利用して、日本語文学のじめっとした私小説的な不毛地帯を掘り起こしたことに大きな意味があった。作者自身のインタビューで『風の歌を聴け』という作品は、最初英語で書かれたものを日本語で書き直して...完成させたという。そうした言葉を武器化するプロセスを経てしか生まれ得なかった新しさが確かにその作品にはあったし、私はそこに共鳴してむさぼり読んだ。日本語でこういうこともできるのか!…という興奮と感銘がそこにあった。その後、春樹エピゴーネンっぽい小説作品が頻出したようだが、その余波があったからこそ、現在の『コンビニ人間』のような小説がオーバーグラウンドに登場できたのではないかと思う。
ちなみに『風の歌を聴け』を読んだ高校生の私はデレク・ハートフィールドの作品を求めて神保町の古本屋を彷徨ったことがある。それが架空の作家だと知ったのは、ほぼ半年を経てからだったろう。あとから聞くと、『風の歌を聴け』を読んで同じような体験をした人は少なくなかったようだ。当時はググることなどできなかったので、真実を確かめるためにはとにかく自分の足を棒にするしかなかった。馬鹿馬鹿しいけど、今から思い返すとそれはなんというか実に村上春樹的な青春彷徨だったように思え、微笑ましい。もうそんなことは二度とできないのだから。
「塊」としてのビートルズ 〜映画『ザ・ビートルズ〜EIGHT DAYS A WEEK - The Touring Years』雑感 〜
映画『ザ・ビートルズ~EIGHT DAYS A WEEK』公式サイト
つい最近発売された「Live at Hollywood Bowl」の余韻に引きずられるように、先週、有楽町のミニシアターで『ザ・ビートルズ~EIGHT DAYS A WEEK - The Touring Years』を観た。 1963~1966年のツアー時代にフォーカスしたドキュメンタリー映画で、監督は『アポロ13』『ダ・ヴィンチ・コード』などで知られるロン・ハワードが務めている。ポールとリンゴのほか、オノ・ヨーコ、オリビア・ハリスンの各未亡人の全面的なバックアップのもと、制作されたということだ。本編終了後に、リマスターで鮮明になったシェイスタジアムのライブが上映され、個人的にはこちらに魅力を感じた。平日の映画館にはリアルタイム・ビートルズファンと思しき60~70代の善男善女が集まり、看板前で記念写真を撮ったり、売店でTシャツなどをいそいそと購入していた。
既知のバンドストーリーに、既知の楽曲。ノスタルジー以外にこの映画を観る意味が曖昧なままスクリーンに向かったが、結果的に観て良かったと思った。
■ 四頭獣「ビートルズ」
「(当時の)僕たちは頭が4本ついてる怪物だった」……映画に登場した現在のポールが語るこの言葉のとおり、ビートルたちはまさに一心同体で音楽業界に殴り込みをかけていたことが映画の進行と共に実感させられる。ツアーやメディアでのクレージーな騒ぎの中で、彼らが最後まで自分達のやりたい音楽=ロックンロールを見失わず、クリエーター・演奏家としての矜持を保っていられたのは、4人がひとつの「塊」として世の中と対峙していたからだろう。ビートルズとはとても仲が良いバンドだった。バンドが「塊」になれずにプレッシャーを一人で浴びて精神に異常を来したのがビーチボーイズのブライアン・ウイルソンだ。
4人が「塊」であることにもっとも重要な役割を果たした人物が、リバプールで彼らの才能を発掘し、マネージャーを務めたブライアン・エプスタイン。紳士でありながら、異能のゲイであった彼の存在を、「塊」の造物主としてもう少しクローズアップすべきではなかったか…ということがこの映画に対するほとんど唯一の不満だ(いや、それなりにしっかり描かれている。という見方もあるとは思うが)。
■ビートルズと公民権運動
ビートルズという「塊」は世の中のプレッシャーに対しては防御壁として働いたが、決して閉鎖的なものではない。ビートルズの音楽を愛するファンに対しては、つねに門戸が開かれていた。それはまだ人種差別が露骨に行われていた米国の黒人に対しても同様で、公民権法が成立したばかりの1964年夏の北米ツアーでのエピソードはこの映画のひとつのハイライトと言えるだろう。
1964年の米南部フロリダ州ジャクソンビルのゲイター・ボウル(現エバーバンク・フィールド)公演において、当時まだ白人と黒人を隔離していたこのコンサート会場での演奏を4人は拒否した。その時のツアー条件には「観客が人種隔離されていたら演奏する必要はない」という項目が含まれていたといい、4人の意向を受けたエプスタインたちは会場側と改めて交渉。最終的に席の隔離はなくなり、白人と黒人が一緒になって歓喜の声を上げ、感動の涙を流し、何人かは失神してともにコンサートを心から楽しんだ。映画には少女時代のその体験を語る黒人の女流作家とコメディ女優のインタビューも含まれていて、彼女たちが当時を思い返しながら語る言葉には胸がつまる。コメディ女優のウーピー・ゴールドバーグは、9歳でビートルズのコンサートを生体験し、「ビートルズはすっごくすばらしかった。肌の色なんて関係ない、自分は自分らしくあればいいんだ、と教えてくれた」と少女に戻ったような笑顔を輝かせながら語った。
米国の公民権運動に与えたビートルズの存在の意義を社会学的視点から考察してみたい誘惑に駆られる。
■岩石(ロック)の塊
ビートルズはサウンド面でも「塊」だった。映画館でこの映画を観る意義のひとつは、大音量でビートルズのサウンドを浴びることが出来るということだろう。映画館限定のシェイ・スタジアムのライブ映像はまさに圧巻。リマスターだとか、ハイファイかどうかより、この「大音量」というのが大切で、4人の演奏が岩石(ロック)の塊のように頭上に降り注いでくる。初期のモノラルシングル盤などを聴いていても感じるが、4人が一丸となった演奏&コーラスの「塊」感がなによりビートルズマジックの正体ではないか。だから中途半端に良い音で鳴るオーディオセットより、むしろAMラジオで聴く「抱きしめたい」のほうがよほど心躍るものがある。ちなみに「抱きしめたい」はステレオミックスで聴いてはダメ。オリジナルモノラルでないとこの曲の魅力は約25%減少する(この時期までの曲の多くはだいたいそう)。
映画には前述の黒人女性二人以外に、何人かのゲストも登場し、英国のリアルタイム・ビートルズファン代表として登場するエルビス・コステロが語った「『ラバー・ソウル』への違和感」が印象的だった。このテーマに関して、私は以前にブログ記事を書いている。最初に聞いた時は「こんなのビートルズじゃない!」と強い拒否反応を示したコステロだったが、数ヶ月後にこのアルバムを夢中になって聴いていたと告白する。確か渋谷陽一も同じようなことを語っていたと思う。やはり同時代感覚では『ラバーソウル』が分水嶺だったのだ。
■「塊」から「個」へ
『ラバー・ソウル』以後、『リボルバー』『サージェントペパーズ』とファンの〝ロックミュージック可聴域〟を広げていったビートルズ。それぞれの創造性が作品に色濃く表れるようになるのもこの時期からで、その代わり「塊」感は次第に失われていく。
映画はビートルズがツアーをやめる時期までを追った後、駆け足のナレーションで解散までを語り終える。「塊」ではなくなったビートルズを語る語彙は、また別の辞書で捜せということなのだろう。映画では全く触れられていないがマネージャーのブライアン・エプスタインは、ツアーをやめ、「塊」であることをやめて一人ひとりであろうと動き出す4人のビートルたちを見届けるようにこの世を去る。自殺説もあるが詳細は未だ不明だ。
「ブライアンは僕たち自身ですらまったく想像出来なかった、僕たちの将来の姿を知っているようだった」。エプスタインとの出会いを思い出しながらサー・ジェームス・ポール・マッカトニーが語る言葉だ。しかし、エプスタインに見えていたのは1966年までのビートルズだったろう。
☆おまけ:映画館限定: シェイ・スタジアムのライブ
本編の後には、シェイ・スタジアムのライブ映像が上映された。30分に編集したものだが当日の演奏曲はすべて収録されている。昔VHSで観たときよりも(そのころは〝シェア〟・スタジアムだったな)、画質も音質も格段に良くなっている。『涙の乗車券』と『ベイビーズ・イン・ブラック』では、ひとつのマイクに向かって歌うジョンとポールの姿。ラストの『アイム・ダウン』ではしゃいでオルガンの肱弾きを披露するジョン….ワタクシ、これだけで丼飯3杯はいけます!
夢
身体的な事情があって、一昨夜より、熟睡が出来ない。
そのためか明け方にものすごく印象的な夢を見たのだが、
起きてみるとくすんだ印象ばかりが強く残って
具体的なシークエンスがすっかり散逸してしまっていた。
切れ切れになった夢の破片を拾い集めてみると、
「ブルボン王朝風の広間で開催されている同窓会」
「雪が本降りになる前に山からクルマで降りようとしたら山頂に迷い込んだ」
「好きだったあの娘と再会。額に汗が滲む」
「すべてがうまくいっているような気分」
「ウクレレで弾き語り」
.....さて、いったい何の夢だったのであろうか。
「川と対話する」近所のフライフィッシング
暗闇でせんべいをを音もたてずに食べるのと、光のもとでバリッとやってはその表面の醤油の焼けぐあい、割れ口から中味のキメの状態などをみながら食べるのとでは、目で食べた方がはるかにうまいのと同じで、魚が釣れたにしてもフライに食いつく決定的瞬間がみえるのとみえないのとでは、釣り味に格段の相違がある、と私は思う。せっかくみえる釣りができるのに、それをしないのはもったいない話である。
それにしても、ドライに魚がでるあの瞬間は、何度あじわっても、その新鮮さが衰えない。
(『ザ・フライフィッシング』所収 中沢孝「スウィッシャーよ、さようなら」)
川でのフライフィッシングは大きく分けると水面の釣りと水面下の釣りに分けることができる。水面の釣りはドライフライフィッシングといい、浮かせる構造の毛鉤=ドライフライを使って、魚が毛鉤に食いつく瞬間を見て合わせを入れる釣りだ(ちなみに言えば、沈める釣りにはウエットフライフィシングとニンフフライフィッシングがある。しかし、現代のフライフィッシングにおいてはいずれもそれほど厳密なカテゴリー分けではないと思う)。
上の引用文は、私が毎号読んでいるフライフィッシング専門誌「フライの雑誌」を創刊した編集者(故人)が書いた文章で、ドライ(フライフィッシング)の楽しみの核心をとても的確かつユーモラスに言い表している。
キャストした毛鉤が水面を流れ魚がいるであろう地点を通過するまでの高揚した気分。そのまま何事も起きなかったときの落胆。気を入れ直して再度毛鉤を投げる。執念深く何度も投げる。そしてついに水面に現れた魚の口が毛鉤を吸い込んだ(あるいは水面上に躍り上がって食いついた)瞬間の心の爆発! ….しかし昂揚しすぎで合わせ損なった時の泣きたい気持ち。釣り人にとっては異性に振られるよりキツイ局面だ。ドライフライフィッシングはことほど左様に人生そのものに比肩するドラマだと思う。だから私のような享楽的な釣り人はそこからどうしても抜け出せない。
最近あまり渓流釣りをしていないので胸を張れないのだが、私はフライフィッシャーマンである。フライフィッシャーマンとは、フライフィッシングの釣りを愛好する人のことで、単に「フライフィッシャー」とか「フライマン」とか呼ぶ人もいる。年配者に「フライマン」を好む人が多いが、それはおそらく日本のフライフィッシング興隆に貢献された諸先輩の一人である沢田賢一郎氏の著書『フライマンの世界』(つり人社/1978年)の影響下にある人々であろう。しかしフライマン、というのは、なにか間の抜けた響きがする。私などは「釣りキチ三平」に出てきたフライマンこと風来満(ふうらい・みつる)を思い浮かべてしまうのだが、この釣りを知らない人が聞いたら、エビフライやカキフライを揚げるプロと誤解されかねない。
閑話休題。
まもなく渓流釣りシーズンが終結するが、ここ数年来の仕事や日常のさまざまな変化があって、今年はついに一度もヤマメ釣りに行けずに終わりそうだ。33歳でフライフィッシングを始めて初めてのことである。
釣り人人生的には暗雲が立ちこめているのであるが、一つの光明は、近所の川でのオイカワやマルタ、コイ釣りの楽しみだ。
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外来種としての稲
生物とその環境は共進化を、生物の一つひとつの変化が環境の変化をひき起こす原因であると同時に結果でもあったというのが正しい進化観である。内と外とは確かに互いに浸透しあっており、生物はその相互作用の場であると同時に、その産物なのである。
(中略)
人類は世界を変えるのを止めるべきだという不可能な要求をしたところでむだである。世界を作り変えることは生きとし生けるものに普遍的な特質であり、ほとんどその本質なのだ。むしろわれわれは、どのような世界に暮らしたいのかということをはっきりさせるべきなのである。そして、その目標に近づくための最良の変化をもたらすよう努めるべきなのである。
引用は上掲書の著者のひとりであるルーウォンティンによるダーウィニズムにおける「適応」のメタファーの通俗的解釈への警句というか直球ど真ん中の正論。下段は「ちきゅうにやさしい」的な牧歌的環境保護論への皮肉でもあろう。同じ温帯域の原産であるブラックバスやニジマスごときに大騒ぎしながら、元々熱帯性の植物である稲が、古代人によって
日本列島に持ち込まれ東北地方や北海道にまで生息していることを問題視しないどころか、自国文化のシンボルのように扱っているのはなぜか? なになに、主食だって!?
水田文化ほど大規模な環境破壊は珍しい。天皇はその守り神。そろそろ稲刈りの季節だろうか。
生物が滅びたところで地球は痛くも痒くもない。かえってさっぱりして気分がいいのではないか。
- 作者: オリヴァーサックス,ダニエル・J.ケヴレス,ジョナサンミラー,スティーヴン・ジェイグールド,R.C.ルーウォンティン,Oliver Sacks,Daniel J. Kevles,Jonathan Miller,Stephen Jay Gould,R.C. Lewontin,渡辺政隆,大木奈保子
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 1997/06
- メディア: 単行本
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The Beach Boys -- TODAY!
夏の終わりの一枚を選べと言ったら、僕はやはり『The Beach Boys - TODAY!』なのである。
学校で6時間も授業を受けたんだから、今日はもう十分さ。
ラジオのダイヤルをちょっと回して、いろいろとチューニングしてみる。
踊りたいんだ、今の気分にぴったりの曲で!
踊ろう。踊ろう、踊ろうよ。ばっちりな曲でさ!
輝きの横に静かに佇むメランコリー。それがビーチボーイズのサウンドの本質。1990年代以降に名作アルバム「Pet Sounds』の評価が高まり、能天気なサーフィンバンドの汚名が雪がれつつはあるが、個人的に「Pet Sounds』偏重気味のBB評価はちょっと気に入らない。それ以前のカリフォリニア〜ンなビーチボーイズにこそ、ポップミュージックのマジックがたくさん詰まっている。上記のアホっぽい歌詞が、あのコーラスとサウンドに包まれた時、ブライアン・ウィルソンの魔術がいつのまにか傷ついた私の心をぎゅっと鷲掴みにするのだ。
僕はどんな大人になるんだろう
いつまでも続くことなんて ないのさ
悲しいけれど
♪ Won't Last ForeverIt's Kind Of Sad...
嗚呼。とにかく夏の終わりに聞く、『The Beach Boys TODAY!』は格別なのである。
Today! (Mono & Stereo Remastered)
- アーティスト: Beach Boys
- 出版社/メーカー: Capitol
- 発売日: 2012/09/24
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