プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

『コンビニ人間』を読んだよ。

 

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『コンビニ人間』が掲載された文藝春秋2016年9月特別号。読書のBGMはKISS「DESTROYER」だ!


 

『コンビニ人間』読了。いやホントにこれは面白い小説だ。久々に(たぶん村上春樹羊をめぐる冒険』以来)日本人が書いた純文学小説を読んで、心から「面白い」と思えた。ある意味カフカ的とも言える作品だ。

それにしても芥川賞受賞作を読むのは『佐川君からの手紙』以来かもしれない。作品と選評が掲載された文藝春秋を買ったのも20年ぶりぐらいかも…。

 

ネットで見てみるとNewsweek冷泉彰彦さんが『コンビニ人間』の読後感を記していたので読んでみた。概ね冷泉さんと同感である。


(参考)

芥川賞『コンビニ人間』が描く、人畜無害な病理 | 冷泉彰彦 | コラム&ブログ | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

 

特に下記の引用部分が『コンビニ人間』という小説のポイントになるだろう。

 

コンビニの定型業務を快感に思うのは洗脳されて搾取されているだけだとか、本当の非性愛の人間の生きづらさはそんなものではない、というような議論に「巻き込まれる」のは容易に想像ができます。そして、そのような「聞き飽きた」議論には関わりたくないという姿勢には、かなり毅然としたものも感じられます。
とにかく「どこかで聞いたことのある」ような「論点」は徹底されて排除されています。価値の相対化をやってはいるものの、それを突き詰めることはしない、そこで身体性のリアリティーの世界に立脚して居直るのでもない、例外的な人間を描いて凡庸な社会常識に一撃を加える気などもさらさらない、という「徹底したニュートラル志向」は見事と言えます。

 

僕はこの「徹底したニュートラル志向」と主人公のキャラ設定が、ふつうの人々の異常性をあぶり出す精巧な装置のように思えた。軽妙でユーモラスの文体の背後に、金属的な冷徹さをたたえたマシンの存在を感じたのだ。

この『コンビニ人間』を読みながら僕が思い浮かべたカフカの諸作品も、やはり安易なメタファーやアクチュアルな意味づけを拒む「徹底したニュートラル志向」に貫かれている。日本ではかつての翻訳によって深刻で重厚な文学作品として受容されがちなカフカ作品だが、原文で読むと乾いた独特のユーモアにあふれているらしい。だいたい『変身』といい、『審判」といい、『城』といい、ストーリー自体はナンセンスコメディといえる。ドタバタ喜劇のニュアンスさえある。池内紀による岩波文庫の新訳や光文社古典新訳文庫の翻訳ではそこらへんのニュアンスが十分意識されているようだ。

芥川賞の選評を読むと審査委員の多くが、『コンビニ人間』を推してわりとスムーズに受賞作が決定したようだ。その中で島田雅彦だけが受賞作への不満を申し立てている。曰く……

セックス忌避、婚姻拒否というこの作者にはおなじみのテーマを『コンビニ人間』というコンセプトに落とし込み、奇天烈な男女キャラを交差させれば、緩い文章もご都合主義も大目に見てもらえる。巷には思考停止状態のマニュアル人間が自民党の支持者ぐらいたくさんいるので、風俗小説としてのリアリティはあるが、主人公はいずれサイコパスになり、まともな人間を洗脳してゆくだろう。そんな脳天気なディストピアから逃れる方法を早く模索してくれ、と同業者に呼びかけたい。(文藝春秋2016年9月特別号 「不本意な結果」島田雅彦) 

 

自民党まで出していろいろ言っているが(サヨク小説でデビューした彼はシールズとかのシンパでもある)、要は小説としてのアクチュアリティというか、社会現実と切り結ばない作者の「徹底したニュートラル志向」の文学観にイライラしていると言うことだろう。引用したこの選評には彼らしくなく論理が欠落している。

審査委員でもうひとり、選評で唯一『コンビニ人間』まったく言及していないのは高樹のぶ子だ。おそらく沈黙によって『コンビニ人間』の受賞への反対を表明しているのだろう。

そして島田、高樹両氏ともに、今回の候補作中で『ジニのパズル』という在日三世の韓国人が主人公のきわめてアクチュアリティの高い小説を強く推している。さもありなん。お二人は「凡庸な社会常識に一撃を加える」ことこそ文学の役割だと考えているフシがある。ちなみにこの『ジニのパズル』という作品に関しては2人を除く審査員全員が文章技術面での難点を指摘している。つまりプロフェッショナルが書いた小説としていかがなものか?という評価である。

現実社会と文学との切り結び方は、サルトルカミュの昔から、いやゾラやフローベルの昔から大いに議論のネタとなっていたわけだが、そういう意味でこの『コンビニ人間』は、文学史上極めてまっとうな路線上に生まれた作品と言えるのではないだろうか。だが、日頃、文学にさほど興味がない人にこそオススメしたい。

 

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「シドと白昼夢」

 

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昔 描いた夢で 
あたしは別の人間で
ジャニス・イアンを自らと
思い込んでいた
現実には本物が居ると
理解っていた
椎名林檎「シドと白昼夢」) 

 

加山雄三からマーク・ボランデビッド・ボウイジョン・レノン

さらに、芥川龍之介太宰治ボードレールカミュまで、

自分を別の人間に擬するお遊びは10代の頃にさんざんっぱらやってきた。

その中には破綻した人生を送ってきた人が多く含まれているが、
みなさんそれぞれ人を楽しませる破綻を演じる狡猾さを持った面々であり、
結果として自分が演じた役柄に殺されてしまった人もいるのだが、
それはそれで充実した、やりきった感がある良い人生といえるのではなかろうか。
だからシド・ビシャスのような、天然の破綻、を見ると
何も言葉が出なくなってしまう。あえて言うとすれば「ご愁傷様」か。

自分自身としては破綻の少ない人生を送ってきたなあと思う。
破綻の種子は常に抱えていたにもかかわらず、
しかも敢て破綻を避ける打算を図ったわけでもなかったのに。
それを幸運と呼んでいいのかもしれないし、
破綻多きヒーローたちに肩代わりしてもらったからかもしれない。

しかし、その代償として私は死ぬまでこの世のオブザーバーでしかいられない。

現実には本物の自分が、愛したり愛されたり、頼られたり頼ったり、

憎んだり憎まれたり、怖がったり怖がられたり、馬鹿にしたり馬鹿にされたり…

様々な位相で現実にコミットしているわけであるが、
それもどこかにある偽りの国から私の目が覗く白昼夢に過ぎない。
……という気分になる。

 

人間というものの思わぬ弱さに触れて、途方に暮れることが多い今日この頃。

子供の頃に「かぐや姫」を読んで、彼女は僕だ、と直感したことを思い出す。

人間50年・・・もう5年も過ぎてしまった。

そろそろ月に還らなくてはなあ。

こういうのを「中2病」と言うのだろう。

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靖国と天皇の「うれひ」

 

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忘れめや 戦の庭に たふれしは

暮らしささへし をのこなりしを

(昭和37年 昭和天皇御製)

 

忘れることができようか 戦争で死んでいったのは、家庭を支えた男たちであったことを…と詠んだ昭和天皇

今からちょうど10年前の夏、A級戦犯靖国神社に合祀されたことに関する昭和天皇の「お気持ち」が、当時の宮内庁長官だった富田朝彦によるメモとして明らかにされた

 

この「富田メモ」を巡ってその真偽を含めて大いに論議が交わされたことは未だ記憶に新しい。先日の今上天皇の「お気持ち」と同等以上のインパクトがあったと思う。というのもこちらは天皇というものの意思を、それも特定の人物へのネガティブな感情(不快感)が含まれるものがストレートに表現された肉声だったからだ。問題となったのは崩御前年の1988年の発言から以下の件である。

 

私は 或る時に A級が合祀され

その上 松岡(洋右・元外相)、白鳥(敏夫・元駐伊大使)までもが

筑波(藤麿・元靖国神社宮司)は慎重に対処してくれたと聞いたが

松平の子の今の宮司がどう考えたのか

易々と 松平は 平和に強い考えがあったと思うのに 

親の心子知らずと思っている 

だから私あれ以来、参拝していない

 

それが私の心だ

 

   ※(  )内は引用者注

 

メモ中の「松平」は終戦直後の宮内大臣であった松平慶民。「松平の子」は、その長男で1978年にA級戦犯を合祀した当時の靖国神社宮司松平永芳のこと。永芳は富田メモ発表の前年に亡くなっている。発表のタイミングはそういう事情も考慮されたのだと思う。メモを発表した日本経済新聞は、その後、識者を集めて検証委員会を開催した。その結果、ここで述べられているのはA級戦犯合祀に対する昭和天皇の不快感以外の解釈はあり得ない」という結論になったはずだ。

 

この天皇による「放言」に、メディア、政治家とも右往左往した。女系天皇騒動の時に三笠宮発言を諌めた新聞社が、この時は掌をかえしたように天皇発言を利用しているダブルスタンダードぶりも滑稽だった。

ある意味、いちばんまっとうに対応したのは、自分の靖国参拝天皇発言の影響はないと断言した時の首相の小泉純一郎で、彼は実は天皇にも、靖国にもなんら思い入れがない男だ。彼は首相になるまで、靖国神社に参拝したことはなかった。しかし首相就任後は一転して遺族会や右寄りの人々へのアピールと、中韓に対するデモンストレーション効果で靖国に足を運ぶという、なんというかマキャアヴェリ的な振る舞いを演じた。それはそれで大したものだ。

 

この年の この日にもまた 靖国の 

みやしろのことに うれひは深し

(昭和62年8月15日 昭和天皇御製)

 

靖国参拝をやめた後に昭和天皇が詠んだ歌。死んでも先帝の「うれひ」は、深いままだ。そしてもちろん、今上天皇にもその「うれひ」は受け継がれている。
この歌では「うれひ」の解釈は、如何様にも解釈できるようになっている。それこそが天皇の意志であり、仕事であるのだろう。

小林秀雄・岡潔『人間の建設』を読んだ。

人間の建設 (新潮文庫)

●人間の建設 (新潮文庫)  小林 秀雄 /岡 潔  (著)


先日の土曜日、ふらっと本屋に出かけた際、「新潮文庫の100冊」の中に、この『人間の建設』が入っているのを見て、「ほうっ!」と思い店頭で手にとって冒頭をぱらぱらっとめくってみた。オープニングはこうだ。  
小林:今日は大文字の山焼きがある日だそうですね。ここの家からも見えると言ってました。
岡:私はああいう人為的なものには、あまり興味がありません。小林さん、山はやっぱり焼かない方がいいですよ。
小林:ごもっともです。(後略)
  なんて素晴らしい! 完璧な雑談の出だしである。 本文だけだと140ページにも満たないので、半日あれば読める。積ん読本が溜まりにたまっているが、ええいかまうものか!と衝動買いした。 
 
この本をものすごく簡単にまとめれば、二人の学識者が最近(対談は昭和40年)の芸術にも、学問にも、そして人間にも深みや情緒が失われてしまった…という、現在に至るまで繰り返されている老人の慨嘆、繰り言を気ままに展開しているに過ぎない。けれども、何せ日本語文芸批評の泰斗と数学的天才の繰り言なので、レトリック的になかなか〝刺さる〟フレーズが頻発する。その結果、本書は類い希な芸術論、学問論、文明論となっている。 たとえばこんなフレーズ。 
小林:ぼくらも不思議なことだが、 振りかえってみますと、二十代でこれはと思ったことは変えていませんね。それを一歩も出ないのです。ただそれを詳しくしているだけですね。ぼくは批評家になろうと思ったことはない。世間が私を批評家にしたのです。(中略)私は人というものがわからないとつまらないのです。誰の文章を読んでいても、その人がわかると、たとえつまらない文章でもおもしろくなります。

 

あるいはこんなのも。

 

岡: 時あるがゆえに生きているというだけでなく、時というものがあるから、生きるという言葉の内容を説明することができる。時というものがなぜあるのか、どこからくるのか、ということは、まことに不思議ですが、強いて分類すれば、時間は情緒に近いのです。時というものは、生きるという言葉の内容のほとんど全部を説明しているのですね。
 話題はゴッホアインシュタイン、非ユークリッド幾何学三角関数本居宣長ドストエフスキー、神風特攻隊など目まぐるしく入れ替わる。どちらかと言えば岡が老人の繰り言を次々に繰り出していくのを、小林秀雄ががっちり受け止めて、さらに敷衍していく…といった風情で雑談は続く。ただしドストエフスキーの話題ではやはり小林が「ドストエフスキーは悪人です」と言ってトルストイとの比較論を述べ始めて、岡を感心させる。 
 
岡の発言は、人間の情緒がないがしろにされがちな新しい時代への反発が基調となっており、終盤で神風特攻隊の精神を日本人の美徳として誉めそやすなど、現代人としては引っかかる部分も多々ある。現行憲法に関しても次のように述べている。 
 
岡:(前略)実際一人の人というものは不思議なものです。それがわからなければ個人主義もわからないわけです。そういう事実を個人の尊厳と言っているのですね。利己的な行為が尊厳であるかのように新憲法の前文では読めますが、誰が書いたのですかな。書いた連中には個人の存在の深さはわからない。
 
 この対談が行われた半世紀前は、高度成長のトバ口に立つ「国家の建設」途上の時期であり、だからこそ本書のタイトルが『人間の建設』であったのだろう。まだ感覚として日本国憲法が「新憲法」だったことがわかるし、「新」という文字に微妙な違和感を滲ませる旧世代の存在感も匂い立ってくるわけだが、ここで岡が言いたいことは(共感はしないが)僕にもよくわかる。この対談全般にわたって縷々述べてきた「情」をそぎ落とすことを良しとする現代の風潮への警鐘を憲法の前文にダブらせてみているのだ。憲法の文章はあくまで法的な文書なので、(憲法前文はやや情緒も込められているが)心の情緒の琴線をそれほど揺らさない。しかし岡先生はあくまで憲法に深い情を求めている。それは無理な相談というものだろう。 
 
 昨日の天皇の「お気持ち」ビデオメッセージを見て、僕は読んだばかりの岡先生の苛立ちが頭に浮かび、それを鎮めることができる理路を持っているのは天皇だけかもしれないな…とちょっと思った。だからどうしたということもないし、この文章にこれ以上の落ちはない。  
  
ドストエフスキイの生活 (新潮文庫)

ドストエフスキイの生活 (新潮文庫)

 
  
情緒と日本人 (PHP文庫)

情緒と日本人 (PHP文庫)

 
日本の国という水槽の水の入れ替え方―憂国の随想集

日本の国という水槽の水の入れ替え方―憂国の随想集

 
  

男はつらいよ!

 

おかしな男 渥美清 (ちくま文庫)

おかしな男 渥美清 (ちくま文庫)

1961年の夏、小さな雑誌の編集長をしながらテレビやラジオに出ていたぼくはNHKのドラマで全国区の人気者になりつつあった渥美清と初めて会った。芝居や映画をよく観る勉強家であり、見巧者の彼と喜劇マニアのぼくは親しく話すようになる。誰からも愛された、映画「男はつらいよ」の“寅さん”になる前の若き日の姿を愛情こめて綴る。対談渥美清と僕たち(小沢昭一)も収録。

 

 今度の日曜日は娘の誕生日でちょうど20歳になる。本来の出産予定日は7月28日頃だったのだが、8月に入ってもまるで出てくる気配がなく、結局、帝王切開になってしまった。現在の女王様キャラはそのせいかもしれない。


なんせ自分にとって初めての子どもだ。午前中の手術で生まれるというので、その日は仕事を休み、朝刊と『安吾新日本風土記』の文庫本を持って朝早くから病院の待合室に詰めていた。待合室の長椅子でまず開いた朝刊の一面に掲載されていたのが渥美清さんの訃報だった。8月4日に亡くなっているので、丸二日ばかりその死は伏せられていたわけだ。

 

テレビドラマの「泣いてたまるか!」以来、僕は渥美さんが大好きで、映画館で寅さんを観ることはほとんどなかったけど、テレビで放映されるとできるだけ見るようにしていた。そうしているうちに僕は次第に一つの着想にとらわれるようになっていく。

 

その着想とは「寅さんはこの世の人ではないのではないか?」ということである。

そもそも前身のテレビシリーズ「男はつらいよ」の最終回で、寅次郎は奄美大島でハブに噛まれて死ぬ。あまりにあっけない主人公の死に視聴者からのクレームが殺到したことが映画化につながった。すなわち映画「男はつらいよ」は寅次郎の死から始まったともいえるのである。

 葛飾柴又の「とらや」にふらりと姿を現すのは、「フーテンの寅」の亡霊だ。ちょうどお盆に祖先の霊が帰ってきて、数日滞在した後、また冥界に戻っていく…その顛末を描いたのが映画「男はつらいよ」シリーズではないのか?

 

この着想(妄想)に特にコレ!という確証はないのだが、いくつかの傍証はある。たとえば…庶民の仏壇のお供え物である「団子」屋という設定。妹さくら夫婦とおいちゃん&おばちゃんの「とらや」の面々が、毎度不在の寅さんを思うシーンの故人の回想のようなしんみりした雰囲気。また、戻ってきた寅さんが問題を起こすと相談に行くのは決まって菩提寺の御前様(笠智衆)であること。毎回のマドンナへの恋愛感情に性の臭いが希薄で、最終的に成就することがないのも、寅さんが死人であれば十分納得できることだ。寅さんの名字である「車」が江戸浅草の〝非人〟頭が代々名乗った「車善七」からとられているということも想像力を掻き立てる。そう考えると寅さんによる名調子のテキ屋の口上も、何かご詠歌のように響いてくるから不思議だ(俺だけ?)。

 

 末期の寅さん映画では、寅さんより甥の満男(吉岡秀隆)と後藤久美子の関係がクローズアップされ、寅さんが一歩引いて、満男への恋のアドバイザーとなるシーンが多くなるが、あたかも満男の恋の成就によって自分が成仏しようとするために尽力しているようにも思われる。映画では若い二人を結婚させる脚本が書かれていたらしいが、渥美清の死去でその第49作はついに作られずに終わった。

 

渥美清没後20年経って、娘も成人し、いつのまにか自分も「一歩引く」年齢に差し掛かってきた。昔のサラリーマンだったらそろそろ定年なのだが、今はそうもいっていられない。寅さん=渥美清という虚構に殉じた男がくれた数々のヒントをもとに、この命果つるところまで、笑いながら生きていきたい。

男はつらいよ

Be My Wife

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時々、きみはさびしくなる。時々、きみは途方に暮れる。おれは世界じゅういたる所に住んできた。そしてそのすべての場所から去った。
おれのものになってほしい。人生を分かちあおう。おれと一緒にいてほしい。おれの奥さんになってくれ。

David Bowie「Be My Wife」拙訳)

 

十代の頃、傷つきたくないから「好き」とはいえなかった。

二十代になって、後悔したくないから「好き」というのを我慢できなかった。

私に「好き」といわれて困ってしまう人もいたが、

みんな私が傷つかないような対処をしてくれたように憶う。

そういうことを通して私は人に気を使わせる人間なのだと気がついた。

二十代後半になって、「好き」といわないままの人がいたが、それが今の妻である。

「ほっとするよ」とかは言ったかも。でも、「好き」とは言わなかった。

それで三十歳になる年に結婚した。そんなものなのかもしれない。

 

そして三十代以降、そのまま適当にお茶を濁して暮らして、今年銀婚式を迎えた。

人生とは、とてもいいものである。


 

Low

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10年前、父が墓を買った。

 

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登山家引退

 ちょうど10年前の2006年7月、父親が自分が入るための墓地を購入した。そこは自宅から徒歩で行ける浄土宗の寺院内にある。紀州にルーツを持つ関西人であり、ふるさと大阪を離れて半世紀以上経てなおも大阪弁を話した父だったが、特に大阪や関西にこだわりがある訳ではないようだ。骨を埋めるのはどこでもいいらしい。40代ぐらいまでは「墓も葬式もいらん。火葬だけして灰はどこかの山の上から散骨してくれ」といっていた。夏山単独行が(酒以外の)唯一の趣味らしい趣味だった。それもちょうど現在の僕の年齢くらいでやめた。南アルプスでの最後の夏山登山の帰り、疲れて岩陰で休んでいたら、「おじいさん、だいじょうぶ?」と若い登山者に声をかけられ、「おじいさんと言われたら、もう登山家としてのオレはおしまいや」と思ったそうだ。確かに50代でおじいさんと言われたらショックだ。それで大学以来の趣味をきっぱりやめてしまった。同じ職業出身の都知事候補の76歳のおじいさんはまだまだ色気たっぷりのようだが。

 

逆噴射記者

 昭和ヒトケタ、終戦を15歳で迎えた父は、徹底した相対主義者であり、多数が信じること、賛成することに対して必ず異論を言いたがる人である。朝日新聞記者であったがいわゆる左翼リベラルではない。世間の人は大きく誤解しているが、もともと朝日新聞読者のコアは決して左翼ではなく、穏健な保守層である。先日、Facebookの友人が朝日新聞にきわめて保守的思想の色合いがする結婚斡旋業の広告が出稿されていることに違和感を表明していたが、いや、あれはずばりターゲットを捉えている広告出稿なのだ。朝日読者とは、かつての自民党ハト派支持者のイメージで、古き良き家族主義的価値観のもと穏やかな日常を望む人々だ。決して社会変革を夢想する社会党共産党に投票する人たちではなかった。ちなみに朝日新聞社は確かに論調はリベラルな香りがするが、右から左までの記者をズラリ取りそろえていたし、これは今でもそれほど代わっていないのではないか?
 父は、大阪商人の出自らしく、徹底的に現実主義者であった。と同時に前述の通り反骨心にあふれる人であり、大勢が同じ意見に流れている世の風潮があるとき、あえて逆張りの意見を放ち、問題も起こした。中国との国交回復時には特派員として北京に行き毛沢東周恩来とも会ったが、全国的な国交回復歓迎ムードの中で、共産党独裁の問題点を指摘しようとして記事を留められたこともある。あるいは、林業問題に取り組んでいるときに、自然保護派が「知床の木を一本も切らすな!知床の森を守れ!」と叫んでいるのを捉えて、「いや、森の木は切らないと根腐れするから、知床の森はどんどん伐採しましょう」などと主張して、相手を激高させた。

 

パンパンの感謝

  面白いエピソードもあった。最近は従軍慰安婦の報道で問題を起こした朝日新聞だが、父は「パンパン(米駐留軍軍相手の娼婦の俗称)は、体を張って外貨を稼ぎ日本の戦後復興を支えた素晴らしい人々」というおそらく今ではなかなか出稿できないだろう内容の署名記事を書いて、社内外から批判を浴びたこともある。これは後日談が面白くて、ある日、会社の父宛に現金書留が送られてきた。宛名に覚えがない。首をひねって封を切ってみると一万円札数枚と手紙が入っている。その手紙の内容は「私たちが戦後復興を支えたと書いていただいて、涙が出るほど嬉しかった」という元パンパンの方からの手紙だった。現在は孫もできて幸せに暮らしている..とも書いてあったそうだ。送り先はでたらめの住所で、名前もおそらく仮名。お金を返却することができなかった父は、同期の友人である編集局長と相談して、そのお金を使って会社の仲間や後輩と銀座で飲んだらしい。



  父のような天の邪鬼は、職場でも、家庭でも、甚だメーワクな存在であるわけだが、不思議にそれほどは憎まれないタイプだ。父の葬式で元部下の人たちの話を聞いてそう思った。話題は父のケチぶりや依怙贔屓やKYぶりの話ばかりだったが、みなニコニコと懐かしんでいた。意外にも銀座のママたちにももてたらしい。いい職業人生だったんだろう。でも、宗教やイデオロギー、思想等にとらわれた生真面目な人たちからはそれなりに疎まれ、敵視もされていたようだ。そこらへんのことを、退職後に出版した著書(上の写真)に淡々と書いていた。

 ところで、自分の墓を買うというのはどういう気分なのだろうか。今や墓の中に(2歳で早死にした娘=私の妹と一緒に)納まっている父にそのことを訊いてみたいと思っている。できれば私がそこに入る前に。