プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

「塊」としてのビートルズ 〜映画『ザ・ビートルズ〜EIGHT DAYS A WEEK - The Touring Years』雑感 〜

 


 

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映画『ザ・ビートルズ~EIGHT DAYS A WEEK』公式サイト

 

 つい最近発売された「Live at Hollywood Bowl」の余韻に引きずられるように、先週、有楽町のミニシアターで『ザ・ビートルズEIGHT DAYS A WEEK - The Touring Years』を観た。 19631966年のツアー時代にフォーカスしたドキュメンタリー映画で、監督は『アポロ13』『ダ・ヴィンチ・コード』などで知られるロン・ハワードが務めている。ポールとリンゴのほか、オノ・ヨーコ、オリビア・ハリスンの各未亡人の全面的なバックアップのもと、制作されたということだ。本編終了後に、リマスターで鮮明になったシェイスタジアムのライブが上映され、個人的にはこちらに魅力を感じた。平日の映画館にはリアルタイム・ビートルズファンと思しき6070代の善男善女が集まり、看板前で記念写真を撮ったり、売店でTシャツなどをいそいそと購入していた。

 既知のバンドストーリーに、既知の楽曲。ノスタルジー以外にこの映画を観る意味が曖昧なままスクリーンに向かったが、結果的に観て良かったと思った。

 

■ 四頭獣「ビートルズ

 「(当時の)僕たちは頭が4本ついてる怪物だった」……映画に登場した現在のポールが語るこの言葉のとおり、ビートルたちはまさに一心同体で音楽業界に殴り込みをかけていたことが映画の進行と共に実感させられる。ツアーやメディアでのクレージーな騒ぎの中で、彼らが最後まで自分達のやりたい音楽=ロックンロールを見失わず、クリエーター・演奏家としての矜持を保っていられたのは、4人がひとつの「塊」として世の中と対峙していたからだろう。ビートルズとはとても仲が良いバンドだった。バンドが「塊」になれずにプレッシャーを一人で浴びて精神に異常を来したのがビーチボーイズのブライアン・ウイルソンだ。

 4人が「塊」であることにもっとも重要な役割を果たした人物が、リバプールで彼らの才能を発掘し、マネージャーを務めたブライアン・エプスタイン。紳士でありながら、異能のゲイであった彼の存在を、「塊」の造物主としてもう少しクローズアップすべきではなかったか…ということがこの映画に対するほとんど唯一の不満だ(いや、それなりにしっかり描かれている。という見方もあるとは思うが)。

 

ビートルズ公民権運動

ビートルズという「塊」は世の中のプレッシャーに対しては防御壁として働いたが、決して閉鎖的なものではない。ビートルズの音楽を愛するファンに対しては、つねに門戸が開かれていた。それはまだ人種差別が露骨に行われていた米国の黒人に対しても同様で、公民権法が成立したばかりの1964年夏の北米ツアーでのエピソードはこの映画のひとつのハイライトと言えるだろう。

 1964年の米南部フロリダ州ジャクソンビルのゲイター・ボウル(現エバーバンク・フィールド)公演において、当時まだ白人と黒人を隔離していたこのコンサート会場での演奏を4人は拒否した。その時のツアー条件には「観客が人種隔離されていたら演奏する必要はない」という項目が含まれていたといい、4人の意向を受けたエプスタインたちは会場側と改めて交渉。最終的に席の隔離はなくなり、白人と黒人が一緒になって歓喜の声を上げ、感動の涙を流し、何人かは失神してともにコンサートを心から楽しんだ。映画には少女時代のその体験を語る黒人の女流作家とコメディ女優のインタビューも含まれていて、彼女たちが当時を思い返しながら語る言葉には胸がつまる。コメディ女優のウーピー・ゴールドバーグは、9歳でビートルズのコンサートを生体験し、「ビートルズはすっごくすばらしかった。肌の色なんて関係ない、自分は自分らしくあればいいんだ、と教えてくれた」と少女に戻ったような笑顔を輝かせながら語った。

 米国の公民権運動に与えたビートルズの存在の意義を社会学的視点から考察してみたい誘惑に駆られる。

 

■岩石(ロック)の塊

 ビートルズはサウンド面でも「塊」だった。映画館でこの映画を観る意義のひとつは、大音量でビートルズのサウンドを浴びることが出来るということだろう。映画館限定のシェイ・スタジアムのライブ映像はまさに圧巻。リマスターだとか、ハイファイかどうかより、この「大音量」というのが大切で、4人の演奏が岩石(ロック)の塊のように頭上に降り注いでくる。初期のモノラルシングル盤などを聴いていても感じるが、4人が一丸となった演奏&コーラスの「塊」感がなによりビートルズマジックの正体ではないか。だから中途半端に良い音で鳴るオーディオセットより、むしろAMラジオで聴く「抱きしめたい」のほうがよほど心躍るものがある。ちなみに「抱きしめたい」はステレオミックスで聴いてはダメ。オリジナルモノラルでないとこの曲の魅力は約25%減少する(この時期までの曲の多くはだいたいそう)。
 映画には前述の黒人女性二人以外に、何人かのゲストも登場し、英国のリアルタイム・ビートルズファン代表として登場するエルビス・コステロが語った「『ラバー・ソウル』への違和感」が印象的だった。このテーマに関して、私は以前にブログ記事を書いている。最初に聞いた時は「こんなのビートルズじゃない!」と強い拒否反応を示したコステロだったが、数ヶ月後にこのアルバムを夢中になって聴いていたと告白する。確か渋谷陽一も同じようなことを語っていたと思う。やはり同時代感覚では『ラバーソウル』が分水嶺だったのだ。

 

■「塊」から「個」へ

 ラバー・ソウル』以後、『リボルバー』『サージェントペパーズ』とファンの〝ロックミュージック可聴域〟を広げていったビートルズ。それぞれの創造性が作品に色濃く表れるようになるのもこの時期からで、その代わり「塊」感は次第に失われていく。

 映画はビートルズがツアーをやめる時期までを追った後、駆け足のナレーションで解散までを語り終える。「塊」ではなくなったビートルズを語る語彙は、また別の辞書で捜せということなのだろう。映画では全く触れられていないがマネージャーのブライアン・エプスタインは、ツアーをやめ、「塊」であることをやめて一人ひとりであろうと動き出す4人のビートルたちを見届けるようにこの世を去る。自殺説もあるが詳細は未だ不明だ。
 

 「ブライアンは僕たち自身ですらまったく想像出来なかった、僕たちの将来の姿を知っているようだった」。エプスタインとの出会いを思い出しながらサー・ジェームス・ポール・マッカトニーが語る言葉だ。しかし、エプスタインに見えていたのは1966年までのビートルズだったろう。

 

☆おまけ:映画館限定: シェイ・スタジアムのライブ

本編の後には、シェイ・スタジアムのライブ映像が上映された。30分に編集したものだが当日の演奏曲はすべて収録されている。昔VHSで観たときよりも(そのころは〝シェア〟・スタジアムだったな)、画質も音質も格段に良くなっている。『涙の乗車券』と『ベイビーズ・イン・ブラック』では、ひとつのマイクに向かって歌うジョンとポールの姿。ラストの『アイム・ダウン』ではしゃいでオルガンの肱弾きを披露するジョン….ワタクシ、これだけで丼飯3杯はいけます!

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