プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

『津波の霊たち 3・11 死と生の物語』雑感

津波の霊たちーー3・11 死と生の物語

津波の霊たちーー3・11 死と生の物語


今年も3月11日が近づいてきた。

 

本書は東日本大震災を描くノンフィクションの中でも白眉の一冊。インフルエンザに苦しむ最中に一気読みしてしまった。でもそれが良かった。もし電車の中で読んでたらオッサンの落涙姿を他人に見られたかもしれぬ。

著者は英《ザ・タイムズ》誌アジア編集長、東京支局長で、前作『黒い迷宮』で英国人女性ルーシー・ブラックマンさん殺害事件取り上げた。

 

本書では74名の子供が犠牲になった大川小学校の真実の追及を縦糸に、横糸として震災後に生き残った人たちの前に現れる霊のエピソードが語られ、その地平に見えてくる被災者の悲しみのパースペクティブに読者は茫然とする。

 

大川小学校に津波が押し寄せたのは地震発生から1時間近くたってからで、校舎の裏には低学年の生徒でも十分登ることができた小高い裏山があった。町の広報車などが津波の襲来と速やかな避難を警告し、それは小学校の先生方にも聞こえていた。それにもかかわらず、何故子どもたちはグラウンドに長時間とどめ置かれ、その後津波がやってくる方向に向かって避難したのか?著者は現地に何度も足を運び、犠牲になった児童の家族らと親交を深め、あえて辛い質問を投げかけながら、悲劇の全貌を解き明かしていく。

 

謎の追及のプロセスに、冒頭で述べた通り、震災以後に被災地各地で語られるようになった幽霊の目撃談と除霊のエピソードが絡んでくる。キーパーソンは僧侶で祈祷師の金田住職。霊と言ってもオカルト話ではなく、その正体が我慢や忍耐を美徳とする日本人(とりわけ東北人)の心性の一つの側面であることが照射されていく。大川小学校で子どもを亡くした親たちも霊能力者のコトバ(=死んだ子どものコトバ)で救われている。作者はそこに一つの救済の形としての価値を認めているが、一方で日本人の美徳(我慢、忍耐)が逆に日本人的な閉塞感という亡霊を生み出し、それが政治的な去勢につながっているのではないかと示唆する。同感。

 

霊にまつわる話の一環として、金田住職ら仏教の僧侶とプロテスタントの牧師たちが協力して、被災者とお茶とお菓子を囲んで話を聞き、ちょっとしたカウンセリングを提供する「カフェ・デ・モンク」というイベントが登場する。辛いエピソードが多い本書の中で、何となく心和むエピソードだ。「モンク」というのは「文句」と「僧 monk」の掛詞だが、発案者の金田住職セロニアス・モンクのファンだからでもあり、BGMとして彼の曲を流してたという。金田住職と共に被災地を慰問した宗教者たちは讃美歌やお経が、被害の甚大さの中で「そぐわない」という印象を持った。金田氏によると、そうした状況の中で独特の歪んだタイム感を有するモンクのジャズが、不思議と「被災者の心のなかのテンポ」にしっくりしたのだそうだ。実に興味深い話だ。

 

本書ではおそらく外国人だからこそ踏み込めたインタビュー視点が重要な役割を負っており、なかなか話題にしにくい被災者間の対立なども浮き彫りにしていく。これぞプロの仕事だが、インタビューも執筆もかなり辛い作業だったに違いない。そのためか本書冒頭と末尾は、まるで救いの物語としての体裁を整えるかのように〝生命の誕生〟のエピソードが添えられている。

私もそうであるが、子どもの親である人が読めば、読後しばらくは心のざわつきをおさえられなくなること必定である。