プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

橋本治が死んで、『蓮と刀』が残された。

 

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蓮と刀

蓮と刀―どうして男は"男"をこわがるのか? 橋本 治/作品社 (1982/05)

 

 

橋本治の死に、ジョン・レノン伊丹十三デヴィッド・ボウイの死と同様に、重いボディーブローをくらったような気分でいる。何を書いたらいいのかわからないので、ほとんど自動書記的に、つれづれなるままに。

高校時代に『桃尻娘』に歓喜した僕が「この人はただものではない」と心から思ったのは、少女漫画評論集『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』と批評的エッセイ集『秘本世界生玉子』を読み、さらに後者 に収録されていた「ソドムのスーパーマーケット」を1冊に展開させたと思しき、この『蓮と刀』を読んだからだった。

『蓮と刀』は1982年初版。サブタイトルに「どうして男は“男”をこわがるのか」とあり、あとがきで筆者は「どうして男は“自分”をこわがるのか」と語る。この本を読んで、僕は「そうか(桃尻娘シリーズの)おかまの源ちゃんは橋本さんだったのか」と悟った。今より同性愛に対するタブー意識は強い時代、筆者は相当の覚悟と意気込みで本書を書いたと思われる。読者である男たちに「男たちよ、こわがるな。布団はしいたぞ、さあ寝よう!」と呼びかけてもいる。

冒頭に置かれた二葉亭四迷が試行錯誤した口語文体論から、それこそおかまの源ちゃんが憑依したようなホモ論になだれ込むが、第2章で繰り広げられるフロイトユング、フロムなど心理学・精神分析の徹底批判がこの本のハイライトの一つだろう。

河合隼雄ユングを援用しながら村上春樹など作家・芸術家の自尊心をくすぐったが、橋本治はいわば美学的、倫理学的視点から心理学の迷妄を厳しく糾弾する。始祖であるフロイトは「おとうさんがこわい」男の子で、ユングやフロムなどはほとんど魯鈍扱いだ。日本のメディア業界、文学業界、クリエイティブ業界は精神分析が大好きだから、橋本が孤高の存在となることは避けられなかったし、この本のおかげで僕は心理学・精神分析とは一定の距離を置いて接することができるようになった。

そして土井健郎『甘えの構造』の批判を通して、橋本ならではの「おじさん」概念が提示される。内部に子供を抱えているおじさんは自分に無理をしておじさんの振りをしなければならない。外見だけはおじさんになっても幼稚な心を抱え続け、知的には思春期から成長していない。おじさんは自分が無理をしているから他人にも我慢を要求する。そんなおじさんのまわりにいてもつまらないから、まっとうな人は逃げ出すが、逃げられなかった人は同化して自分も抑圧的なおじさんになる……なんだおじさんになった今こそ、この件を十全に理解できるじゃないか!「男は女に負けたくない。負けられない。なぜなら、女に負けたら男はインポになるから」。セクハラ、パワハラ、LGBTなどについて盛んに議論されるようになった今こそ、この本が書かれた真の意義が理解されるようになったと思える。しかし単行本はもとより、後年の河出文庫版も絶版のようだ。

 

自在な文体と相まって縦横無尽に領域を横断しつつ最終的に全部つながってるところがこの本のすごいところで、この頃の橋本の文体のキレ具合はとんでもない。文体そのものが思想であり、卓越した世界観となっている。90年代以降の橋本の文章にはそのキレ味はなくなっているが、それは僕には、橋本が完全な孤高を棄てて、誰かのために文章を紡ぐようになったからだと思える。しかし世間に向けた怒りを含んだ毒や「テメエが自分の頭で考えろよ!」という叱咤は最後までやむことはなかったと思う。それはジョン・レノンの最後のインタビューでもアピールされていたことでもある。

蓮と刀―どうして男は“男”をこわがるのか? (河出文庫)

蓮と刀―どうして男は“男”をこわがるのか? (河出文庫)