プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

私説・トンデモ日本古代史

壬申の乱 (戦争の日本史)

壬申の乱 (戦争の日本史) 』倉本 一宏  著

持統天皇を乱の首謀者とするユニークな「壬申の乱」像を描く。
異論はないではないが、論証を含めなかなか注目すべき一説。面白い!

 

 

ところで日本の建国はいつだろう

 僕は日本という国ができたのは、壬申の乱によってだと思っている。つまりそれ以前に日本という国はない。そういえば壬申の乱って、6月じゃなかったっけ?そう思って調べてみると、確かに天武天皇元年6月24日に勃発している。しかしそれは旧暦なので西暦だと672年7〜8月にかけての真夏の戦いであったようだ。
 日本書紀はこの国内最大級の内戦といわれる壬申の乱の勝者によって編纂された。だからそれ以前の歴史は、まあ、実情をベースにしているかもしれないが基本的にフィクション。近年、聖徳太子非実在説は珍しくないが、僕はその叔母である推古女帝も架空の人物じゃないかと考えている(根拠はある)。

 

いったい壬申の乱とは何だったのか?

 それは朝鮮半島新羅百済(やがて滅亡)、高句麗(やがて滅亡)の戦乱を背景に親百済の反動勢力(中大兄=天智帝、中臣鎌足藤原不比等、鵜皇女=持統ら)と新羅&大唐帝国との柔軟外交を企図する改革派(厩戸皇子?を含む蘇我氏軽皇子=孝徳帝〜大海人=天武帝ら)との30年以上にわたる政権争いの結末だった。反動派は百済王族(騎馬民族?)と血縁があったかもしれない。
 改革派=律令的な中央集権国家の計画は蘇我氏が発案・実行者とみる。大化の改新は、実は反動勢力によるその妨害計画だったのだが、後世には反動側が改革の手柄だけを横取りした形になった。日本書紀の矛盾はそこから生まれる。中大兄がようやく政権を固め念願の百済復興をはかった近江朝だが、白村江での大敗後、唐の軍隊が筑紫に進駐。これは第2次大戦後の米軍みたいなものだな。

 

百済派の密かな巻き返し

 その進駐軍のバックアップと生き残っている蘇我氏が陰に日なたに活躍して、反乱軍が勝利したのが壬申の乱。占領軍政権としての天武政権が成立する。恐らく蘇我氏(つまり天智の弟ではない)の血縁であったろう天武帝は、国を守るために進駐軍との関係構築に尽力した戦後の吉田茂みたいなものかもしれない。しかしコチラの進駐軍は、自分たちのお国の事情もあり、安保条約も結ばず比較的あっさりと引き上げた。
 天武死後、皇后である(天智の娘でもある)持統が政権につき、藤原不比等と組んで、再び親百済政権が復興。以来、百済を滅ぼした新羅への憎しみから半島外交は停滞。ずーっと後年、明との緊密な関係を築こうとした足利義満が暗殺されたっぽいのとか、親百済藤原氏を小馬鹿にしてた織田信長の頓死とか、貴族の権威に弱い豊臣秀吉が朝鮮征伐したのとかは、ひょっとして朝廷に新羅への憎しみがずっと生き残っていたからかも….とも妄想する。

 

現代にさまよう親百済派の亡霊

 近代の征韓論とか、韓国併合とかいった不幸な歴史も百済復興の怨念だとしたら相当恐ろしい。明治の教科書では皇室の争いである壬申の乱はタブーだった。21世紀の嫌韓と韓流ブームが、現代に蘇る壬申の乱だとしたら、そうとうアレだな。ヘイトスピーチ壬申の乱の名残を見る私は相当にイカれているのかもしれない。靖国神社の心象的な祭神は百済の神かもしれないと言ったらネトウヨの皆様に叱られるかな?

どっとはらい