プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

「目の見えない人は世界をどう見ているのか」(伊藤 亜紗 著)雑感。

目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)

目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)

 

 子どもの頃、祖父母と座頭市の映画をテレビで見て衝撃を受けた。勝新太郎演じる市が、見えない白目を剥きながらバッタバッタと敵のごろつきを斬り伏せていく。「目が見えないけれど感覚が研ぎ澄まされると、周囲のことが分かるんだよ」と祖父は言ったが、それがどういうことかよく分からなかった。それからしばしば目を閉じて「感覚を研ぎ澄ませる」をやってみたけれど、当然のことながらそこには闇とチカチカがあるだけだった。

 

  本書は、タイトル通り視覚障害者が外界をどのように捉えているのかを、視覚障害者と関係者に対して行ったインタビューやおしゃべり等から論考を進め、このテーマに対する入門編としてわかりやすくまとめた本だ。著者は最初生物学を志望したが、大学時代に文転した美学の専門家で現在は東工大准教授。こうした経歴は読む進めるに従い、なるほどなあと納得されてくる。


 視覚障害は決して「欠如」ではなくその人の「特徴」であり、「援助」の対象としてではなく「隣人」として視覚障害者と接する。そのことによって見えてくる「見えない人たちが見ているもの」が、「見えている我々が見過ごしていたもの」を発見する大きなヒントになってくる。見えない人には当然ながら「視点」も「死角」もない。物事は自分にどう見えるかではなく、(視覚以外の)感覚がとらえた断片の関係性から全体を類推することによって「見えてくる」。富士山は末広がりの三角形ではなく円錐として、月は円ではなく球として、いずれも2次元ではなく3次元として。また、2次元の絵画を一緒に美術館に行った見える人の言葉から演繹推理し、再構成して鑑賞する。それは「鑑賞とは作品を作り直すこと」という現代アートの重要コンセプトに通底する鑑賞態度だ。見えない人は、このように断片を繋ぎ合わせて全体を演繹する習慣がついている。見える人のように目で見たイメージに固執するということがないため、入ってきた情報に応じてイメージを柔軟に変えることを厭わない……。

 そんな数々のエピソードが女性らしい(というのは偏見かもね)しなやかで平易な文章によって語られていき、とても間口の広い本に仕上がっている。

 たとえば冒頭の私の座頭市のエピソードに関連する「見える人が目をつぶること」と「そもそも見えないこと」の違いを、4本脚の椅子の1本がない(当然傾く)状態と、もともと3本脚で作られた椅子(安定している)の比喩として説明しているところなど秀逸だと思った

  一方で著者ならではのこだわりもある。通読すると第1章から「空間」「感覚」「運動」「言葉」と並べて、最後の第5章を「ユーモア」とした作者の思いを強く感じるだろう。また「障害」を「障がい」や「障碍」と表記することが「問題の先送り」であると、語感のネガティブさを避ける社会風潮への異議申し立てを行っている。


 本書は一般向けの新書であり、あくまでも視覚障害という新しい世界を見るための「入門書」である。あまりに平易な読み味なので食い足りないという人もいるかもしれないが、実はここにはほとんどの材料が並べられているはずで、あとは読んだ人の能動的な知的努力が求められていると言えよう。