プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

フィリピンの子供たち。

 

The Best of Bob Dylan

 

神さまの祝福がいつもきみにあるといい

きみのねがいごとがすべて実現するといい

きみがすることがいつも誰かのためになればいい

星までとどく階段をつくればいい

そして、一段一段のぼっていき

きみがいつまでも若ければいいのに

いつまでも、いつまでも若く

ボブ・ディラン「Foever Young」拙訳)

 

 歳をとると 、自分の目で見たものしか信じなくなるようだ。しかし、自分の目で見たからと言って、その目に真実が映っているという保障はない。

 10年ぐらい前のことだろうか。とある女性の小説家が、ニュース番組でフィリピンの貧民街を訪れた話をされていて、ちょっとあきれたことがあった。自分たち(日本人)と比べた貧しさにしか、目に入らないその箱入り女子高生のようなナイーブさにである。彼女の目に映ったのは、ただただ貧しさとそれに起因する悲惨さだけのようだった。私もその少し前に、フィリピンの貧民街の人々と5日間ほど寝食をともにし、日々子供たちと遊んでいたので、その時の小説家の発言には違和感を感じたし、こんな文章を書いていることからもおわかりの通り、現在もその発言と小説家に嫌な感情を抱いている。しつこいなオレ。

 私も貧しさと悲惨さには俯く思いだったが、現実はさらに多様だった。日本人がなかなか巡り会えない幸せや暖かみを、彼らと過ごす日々の中で感じることができた。まともな家もないのに(私はその彼等のためにブロック塀による簡素な家を造る学生ボランティアに同行した)、なぜかポケモンカードだけはたくさん持っている子供たちはひたすら明るかった。私が昔とった杵柄で空手技を披露すると、たちまちジャッキー・チェン扱いしてくれてうれしかった。楽しいことにとことんどん欲な彼らの明るさは、言語を超えて僕の胸にずしんと響いた。

 前述のニュース番組で司会のキャスターが「しかし、アジアの子供たちの目の輝きはとても生き生きしていますね」と小説家に話をふっても、「でも、それは子供たちが自分を取り巻く現実の酷さに気づいていないから」とネガティブなことしか言わない。あほか、と思った。子供たちにとって、目の前にあるものが現実なのであり、それ以上でも以下でもない。それは私たちだって同じこと。現実の酷さはイコール貧富の問題じゃない。もちろん、フィリピンの貧困問題は深刻である。しかし、それは同情でどうにかなる問題ではないし、我が身と比べるものでもない。まず、そこで生きる人間をもっとしっかりと見なさい。じゃないと16世紀のイエズス会宣教師の上から目線となんら変わらない。

 

 貧しさの裏側にある人間の息づかいを見ないこの方がどういう小説を書いているのか、果たしてちゃんとした小説が書ける人なのか、ひじょうに疑問に思った。未だにその人の小説は読んだことがない。そんな時間があるのなら近松西鶴漱石や太宰を読む。