プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

木田元『反哲学入門 』を読んだよ。

反哲学入門 (新潮文庫)

反哲学入門 (新潮文庫)

 

しばしば大学の文系学部の学問が役に立たないという話題で盛りあがるが、役に立たない学問のうち最たるモノが哲学だろう。そもそも私たちは哲学とはなにかがいまいちよくわかっていない。

本書は癌から生還したばかりの著書が語り起こしの形で著した驚くべき哲学入門書だ(著者は2014年に逝去している)。

著者は自分が死にかけた体験から語り始める。哲学は私たちが「存在」することへの驚きから始まる知的営為なのでこれは肯ける。続いて著者自身の哲学への傾斜と反問について実に率直に語っていく。哲学者なのに「哲学なんて関係ない、健康な人生を送る方がいいですね」「教師になってからもデカルトが苦手」などとしれっと言い放つ。

 そんなスタンスでギリシャ哲学から20世紀のハイデカーまでの西洋哲学が辿った道筋を恐るべき知的腕力で明快に語り尽くしている。あまりにもわかりやすく、腑に落ちるので、読みながらしばしば誤読しているのではないかと不安になったぐらいだ。

 

 同時に、なぜ私たちが、とりわけ日本人の私たちが哲学をよくわかっていないかを「理性」という言葉の意味から説き明かす。なんとすれば第1章のタイトルは「哲学は欧米人だけの思考方法である」なのだ。

西洋哲学は「存在」というものを説明するために、実に不自然な「超自然(あるいは形而上。後には神)」を無理矢理でっち上げた所から始まった。その「超自然」をでっち上げた〝犯人〟はプラトンだった。自然から「成る」と考えられていた存在を、プラトンは超自然的存在によって「作られる」ものと定義し、この基本線はキリスト教思想(超自然的存在=神)を串刺しに、19世紀のニーチェが現れるまで守られる。その間、日本や東洋の思想は自然から「成る」、自然とともに生きるをベースにしていた。そもそもの自然観・世界観・人間観のベースが違うのだから、理解するのが難しくて当然なのだ。これは一神教多神教の差でもある。


ところがニーチェはこの西洋哲学というちゃぶ台を思いっきりひっくり返した。茶わんやお皿が散乱した茶の間を片付け始めたのがハイデガーで、その後、メルロ=ポンティデリダなどがその後を継ぐ。著者はニーチェ以降はもはや「哲学」とは呼べないと主張する。本書のタイトルが「反哲学入門」なのはそのためだ。

本書を読み終え、これまで所々に濃い霧がかかり、肝心な部分にピントを合わせにくかった西洋哲学史パースペクティブが一気に見渡せるようになった気分だ。哲学の埒外にいる日本人だからこそ書けた本だといえるだろう。文庫で300ページに満たないボリュームだが、この書物が出来るまでの著者が積み上げた知的営為の膨大さと煩悶の歳月を思うと、頭が下がる。また、語りおろしなのだが、あとがきによるとかなり著者が原稿に手を入れており、諸処に理解の難所があったりもする。

西洋哲学に食欲を感じながらも、消化不良を起こしがちな人々に勧めたい。

 

 

銅像になってしまった園長先生

私の出身幼稚園の門の所に創立者夫妻の銅像が建っている。

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園長夫妻の銅像。妻が園長。夫はおそらく理事長だったんだと思うが、園児の前にはほとんど登場することはなかったので顔はまったく覚えていない。

 

わが家から1kmもない所で隣にマルエツがあるため、今もしばしばその前を通る。

何を隠そう私はこの幼稚園の第一期生なのだ。

入園式前日、私は自分の母親、近所の友だちとその母親とで園庭に入って遊んでいた。

いまではあり得ないことかもしれないけれど、まだ開園していないのに普通に園内に入れた。

子どもたちはピカピカの遊具で遊び、母親たちはおそらく子どもたちの明日からの幼稚園生活について話をしていた。

そこへ園舎の中からニコニコしながら中年女性が出てきて「こんにちは!」と母親たちに挨拶した。

「明日からヨロシクね」と私たち子どもに向かってもていねいに頭を下げ挨拶した。

それが園長先生だった。派手な顔立ちの女性でパーマのかかったヘアスタイルが

その年の夏に放映が始まった特撮TVドラマ「マグマ大使」の悪役ゴアに似ていた。

幼稚園の行事では羽織袴の和服を身につけていたことも覚えている。

僕は家庭の都合でその幼稚園に合計1年ちょっとしか通っておらず、

結局、なんだかんだあって卒園もしていないけれど、

今は銅像になってしまった園長先生のとびきりの笑顔が

自分の子ども時代、すなわち人生の始まりのような気がしているのだ。

『九人と死で十人だ』(カーター・ディクソン)雑感。

 

九人と死で十人だ (創元推理文庫)

九人と死で十人だ (創元推理文庫)

 

参加しているとある書評サイトで、書評を執筆することを前提に献本として本書をいただいた。

カーター・ディクスンによるH・M卿ことヘンリ・メルヴェール卿モノの1作。これまで文庫化されたことがなかったようで、私も今回この作品を初めて知った。意外とおもしろかった。

この時期の他のディクスン作品と同様に第二次大戦下の時代状況がストーリーに大きく反映されている。本作の舞台はニューヨークから大西洋を渡って英国に渡る大型客船。しかし搭乗客は9人だけで、爆撃機と爆薬を輸送することが航海の主目的だ。武器を積んで英国に渡る船は、ナチスドイツのUボートに見つかれば、あえなく魚雷で撃沈されてしまうだろう。この舞台設定だけでサスペンスムードたっぷりといえる。

そしてそんな危険を承知で乗り込んだ9人の搭乗客もワケありな面々が揃う。検事補、医師、トルコ外交官の元夫人、英語が不自由なフランス軍大尉、元外務省勤務の若い貴族、情緒不安定な若い女性、ゴム印製造会社の経営者…ストーリーの進行を担うマックスは傷心を抱えて渡英するジャーナリストで、船長の実弟だ。

マックスは第一の殺人の第一発見者となり、必然的に事件の核心部分に巻き込まれていく。死体に残された指紋は船客と乗務員の誰のものとも合致しない。航海中の船内という閉ざされた状況での凶行にもかかわらず、船に乗っていない犯人による殺人という不可思議な状況が浮かび上がる。乗客の誰かがナチス側のスパイやシンパではないかという不安も増幅される。そして第二の殺人…さらなる殺人の恐怖におびえる船客たち。

船長のたっての要請により、実は密かに乗船していた元英国陸軍情報部部長H・M卿が事件解決に乗り出す。この性格が悪そうで巧まざるユーモア感覚を持つアクの強い名探偵は、ウィンストン・チャーチルがモデルとなっているそうで、なるほど禿頭と低い鼻、苦虫を噛みつぶしたような口元とは、実にチャーチルの大きな特徴だ。

傍若無人なH・M卿は、犯行の状況を整理する中で犯人と思しき人物から殴られ負傷してしまう。後ろから殴られたため犯人の顔を見てはいなかったが、H・Mはマックスにこう言い放つ「「わしには既に殺人犯の正体がわかっておるからな。犯行の動機と手口もだ。(中略)つまり、事件の全貌を解明したのだ」。

トリックは「な〜るほど」と思えるシンプルなもの。犯人も「あるいは?」と思えた人物で事件解決に意外性だけを求めるとやや肩すかしかもしれない。しかし、登場人物の個性と来歴の謎や面白さを楽しみながら読むと、事件に対する趣は深くなるだろう。意外なハッピー・エンディングもなかなか良い感じだ。

カーター・ディクスンディクスン・カーの怪奇趣味や複雑なプロットはここにはないが、巻末解説にもあるとおり、戦争という状況と人間の心模様が犯罪トリックに結びつくストーリー展開は、一種の反戦文学かもしれない。国家の威信と大義のため多くの人が殺される戦時下において、取るに足らない一人の死の意味を徹底的に追求する推理小説とは実に皮肉の効いた代物ではある。そう考えるとタイトルの意味も味わい深い。

仕事や家事が滞りがちに… ストレス蓄積の兆しかも

style.nikkei.com
7月28日(土)の日本経済新聞NIKKEI プラス1に書いた健康記事です。
なかなか夏バテから回復せず、夏休み明けのこの時期は憂鬱な気分になり、なにかとストレスをためやすいかもしれません。くれぐれもご注意を。

小学館「P+D BOOKS」礼賛

 

夏の砦 (P+D BOOKS)

夏の砦 (P+D BOOKS)

 

以前は文庫本で代表作の多くが入手できた戦後昭和文学の作家たちの作品がいつのまにか入手困難となっている。

文庫本というのはある程度の古典は網羅するけど、戦後の作家など中途半端に古く、忘れ去られつつある作品群を絶版にしなければならない事情は十分に理解できる。著作権が切れた作品はそのうち青空文庫でも読めるようになるので、出版のモチベーションはますます低くなるに違いない。

でも、小説好きとして中高生から大学生にかけて読んだ昭和文学作品が商品として消えてしまうことは、なんか残念だな~と思う気持ちは残る。高校時代に愛読した倉橋由美子や大学の恩師の一人である辻邦生の文庫本も書店で見かけることが少なくなって寂しい。

3年ぐらい前に配本が開始された小学館の「P+D BOOKS」シリーズは、そうした作家たちの作品を「P(=ペーパーバック)」と「D(=デジタル)」の二種類の形態で提供するという面白い試みだ。

 

「P+DBOOKS(ピープラスディーブックス)」

 

ペーパーバック版は文庫版よりやや大きなB6判で、欧米のそれとと同様のチープな紙質と簡素な装丁。価格帯は税抜き450~650円と現在の文庫本よりむしろ安い。ただ、扱っている書店は限られているようだ。kindle版は200~300円台とさらに安い。

 

ペーパーバック取り扱い店舗リスト

 

現在までのラインナップでは中上健次福永武彦辻邦生遠藤周作北杜夫吉行淳之介、小川国夫など中高生から大学生にかけてむさぼり読んだ作家が網羅されているのがうれしい。丹羽文雄川端康成武田泰淳などの戦中から活躍していた大物から、新しいところだと栗本薫干刈あがたの名も。中上健次立原正秋に関しては、なんと別に電子版のみの全集も出されている。現在も月に一度のペースで毎回2~4冊の新刊が配信&配本されている。最新刊は野球がテーマの短編集『白球残映』赤瀬川隼芥川賞受賞の戦争文学『プレオー8の夜明け』古山高麗雄。なるほど時宜を得ている。

 

 小学館さん、ぜひこの企画をまだまだ続けてくださいませ!

 

失われた名盤④『C-ROCK WORK』 ZELDA

 

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C-ROCK WORK

 

 1987年発表の第4作。ムーンライダース白井良明がプロデュースした前作「空色帽子の日」(1985年)は、統一感溢れるサウンド構成によるコンセプチュアル・アートとも言える傑作で本作と甲乙つけがたいわけですが、本作も元四人囃子佐久間正英氏による、ロックバンドとしてのリアリティを感じさせる骨太のサウンド・プロダクションが素晴らしい日本語ロック屈指の名作です。まさに捨て曲なしの全10曲。サウンドへのこだわりやリズムの周到さはまるでビートルズの作品を思わせます。バンドリーダーである小嶋さちほさんの弾くトリッキーで曲を躍動させるベースラインは、ピーター・フック(ジョイ・ディビジョン~ニューオーダー)あたりの影響大と見ました。当時で言うヘタウマそのもの。

 でもCDで長く廃盤状態が続いています。実にけしからん!そういえばこの「C-ROCK WORKS」を含むゼルダソニー時代の作品を5CD+1DVDでまとめたボックスセットが、予約が一定数に達すると商品化されるという話もあったが、あれはどうなったのだろうか?

 先日、夜中にLPレコードを引っ張り出してこの「C-ROCK WORK」を聴いてみました(このアルバム、どうしても夜に聞きたくなります。「空色帽子の日」が明るい日差しの中で聞きたくなるのと対照的です)。同時期のガールズバンドSHOW-YAPRINCESS PRINCESSなどのように〝懐メロ臭〟漂うこともなく、ZELDAの個性が時を越えて輝いています。もちろん自分が中高年おじさんになった今や、高橋佐代子嬢の書く歌詞だけを眺めると気恥ずかしさを感じたりもするわけですが、それがサウンドと一体になった時に押し寄せる情感の厚みには、やはり圧倒されるものがあります。メンバーは私と同世代(±2~3歳)なので、ZELDAの音からは、10代~20代に出会った(必ずしも恋愛絡みとは限らぬ)数々の同世代女子たちの香りが立ちのぼってくるようです。素直さ、純粋さ、狡猾さ、しぶとさ、あざとさ、弱さ、強さ・・・いろんなものが混ざり合った神の造形物としての彼女たちも、私と同じ50代なわけです。今でも彼女たちは女の子であるのでしょうか。それとも・・・・そんなことを考えていたら眠れなくなりました。

 私が特に好きなのは、夜の帳が降りてくるようにゆっくりしたテンポでひたひたと始まる1曲目「よるの時計は12時」、痙攣するギターリフを背景に、たゆたうメロディが無差別絨毯爆撃のように愛憎を噴出させる最終曲「浴ビル情」、そしてあその2曲にはさまれたブラックメルヘン的な「大きなのっぽの古時計」ともいえる「時計仕掛けのせつな」と、セクシュアルな暗喩をストレートなロックサウンドと文学少女的ながらも硬質なレトリックによって、爽快かつ格調高く(?)歌い放つ「Question-1」。

 

朝の眩しい光は 世界平和の訪れ

いやしいバスターミナルの 行列の利用

朝の白い光は 世界破滅の訪れ

知られざる日常の隠された一環

 

きみは問いかけられ

きみは目を伏せる

きみは問われてる

(Question-1 歌詞抜粋)

 

 ああ、聴けば聴くほど素晴らしくて、目を伏せてしまう。レコード会社は即刻、この作品をリマスターして再発すべし!

『絶滅の人類史〜なぜ「私たち」が生き延びたのか』(更科功 著)雑感

 

絶滅の人類史―なぜ「私たち」が生き延びたのか (NHK出版新書)

絶滅の人類史―なぜ「私たち」が生き延びたのか (NHK出版新書)

人間は万物の中で最もすぐれているものとされていた時代にはしばしば「万物の霊長」という言葉が使われた。最近はあまり使う人がいなくなったが、本書を読むとその理由がある程度理解できる。

広い意味での人類は700万年前にチンパンジーとの共通祖先から枝分かれして独自の進化を遂げたが、その理由は必ずしも人類の優秀性を示すわけではなかった。むしろ人類は住み心地の良い森林から押し出された弱者であり、飢餓と肉食獣の脅威におびえる中で生きながらえてきた。

 

決して恵まれた居住環境ではない疎林や草原でどのように生命をつないでいくのか…著者が紹介する最新の人類史の成果とは、そんな苦肉の策の先で偶然と幸運に支えられて紡ぎ出されたストーリーだ。読みながら思わず「よく絶滅しなかったな〜」とその幸運を祝福したくなるぐらいだ。

 

直立二足歩行と脳容量増加の関係、体毛がなくなった理由などの仮説も実に興味深かった。特に男が配偶者や子どもなどに狩猟の獲物を(手に持って)持ち帰るためというまるでマイホームパパみたいな志向によって獲得したのが直立二足歩行….という仮説には驚かされた。まあ、あくまでも仮説ではあるのだが、面白いと思う。

 

人類はホモ・サピエンスだけでなく、数万年前まではネアンデルタール人をはじめ何種類の人類が同時に存在していたという事実も興味深い。そしてホモ・サピエンスの存在がネアンデルタール人の滅亡を招いたという事実は実に重い。我々ホモ・サピエンスより、大きな脳と頑強な肉体を持っていたネアンデルタール人は、こすっからいサピエンスの知恵に追い詰められていった。そしてサピエンスは交雑によってネアンデルタール人の「いいところ」もちゃっかり取り入れて進化していったのだ。

また、インドネシアフローレス島に約5万年前まで生きていた成人の身長が110cmしかないホモ・フロレシエンシスの存在に深く興味を引かれた。日本神話の少彦名や一寸法師をはじめ世界各地の神話や伝説に残る小人のエピソードは、もしかしたら我々以外の人類の存在の記憶に由来しているのでは?と想像の翼が広がる。

 

あくまで一般読者向けに書かれた本なので作者はモノの例えとして鉄道路線やら、相撲の番付やら、燃費やらを使って説明する。そんな著者遊び心が楽しく、わかりやすさにも貢献している。まるでお茶を飲みながら、時にはアルコール入りのグラスを傾けながら、話が上手な人類史専門家から直接話していただいているような読み味だ。

 

かといって軽い読み物かと言えば決してそんなことはない。著者がさりげなく開陳する人類史の重要テーマと最先端の知見について、読後に自分でググりたくなること必至。人類史研究のめざましい進展と、それでもまだまだわからないことが膨大にありそうだと言うことが、愉快そうに語る著者の背景にどーんと広がっている…そんな知的興奮を存分に味わうことが出来る一冊だ。