「愛しのフリーダ(字幕版) 」を見たよ。
1961年、リヴァプール。17歳のフリーダは同僚に連れられてキャヴァーン・クラブへ出かけ、ステージで演奏する革ジャンの4人組、ザ・ビートルズの音楽に衝撃を受けた。何度もクラブに通いメンバーとも次第に親しくなっていくうち、ある日バンドマネージャ―のブライアンから秘書として勧誘される。オフィスに顔を出すメンバーたちはマネージャーに会う前にフリーダとおしゃべりするのが日課だった。やがてファンクラブの運営も任され、バンドはフリーダの想像を遥かに超える速度でビッグになっていった―。
(C)Courtesy of Freda Kelly
おお正月にふさわしい愛すべきドキュメンタリーを見た。正月にふさわしい愛すべきドキュメンタリーを見た。
ビートルズの成功は、彼ら自身の才能と個性に加えて理解者に恵まれていた面が大きい。特にブライアン・エプスタインとジョージ・マーティンという得難いサポーターがあればこその今日の評価だろうと思う。この映画を観ると、そこにフリーダ・ケリーの名を加えてもいいと僕は思った。ビートルズの4人はもちろん、その家族にも信頼され、愛されていたこのファンクラブ代表者(兼ブライアン・エプスタイン秘書)の存在が高速回転するグループのエンジンオイルの役割を果たしていたことが、本人の控えめな証言によって明らかになる。ポールやジョージの父親からお酒の嗜みやダンスを教えてもらったというエピソードは微笑ましいし、悪態をついたジョンを最後には土下座させたという勇ましいエピソードには大笑い。その原因ともなったムーディーブルースのメンバー(誰とは明示されない)と一時つき合っていたという話は初めて知った。
彼女がどれだけ誠実な人間かは、この半世紀間、彼女の口からビートルズのスキャンダルやこぼれ話などが一切流出していないし、暴露本の類も存在しない事から察せられる。実際、金銭と交換に情報提供や暴露を求められたことは少なからずあったようだ。「名声やお金なんか結局なにもなりはしない」と〝現在〟のフリーダは顔をしかめる。
本来ならこの映画のための証言も得られなかったはずだ。しかし、撮影の2年前息子に先立たれ、自分が彼に60年代にどれほどエキサイティングな青春を送ったかをついに話さず終わってしまったことに悔恨を感じていた。せめて孫にはおばあちゃんがビートルズと共にどんなに素晴らしい時間を過ごしたかを知ってもらいたい….この映画はそんな極めて個人的な思いから実現した。映画の最後に「思い出すのは、これが最後だわ」と言い残し、彼女は自分の車を運転して去っていく。 希有な、しかしどこにでもいる田舎娘、それが愛すべきフリーダ・ケリー!!
ちなみにこの映画ではビートルズの曲はほとんど流れない。彼らがカバーしたオリジナルが多く使われている。この映画を観る人はビートルズの楽曲なら常時脳内再生できるような人が殆どだろうから、それは正解。むしろ時代性を超越しがちなビートルズの曲を使うより時代の雰囲気を表現するのにはよかったと思った。
いやほんとにいいモノを見た。
音楽という名の魔物
ああ・・・あのソナタは恐るべき作品ですよ。まさにあの部分がね。それにだいたい音楽というのは恐るべきものですよ。
あれはいったい何なのでしょう? 私にはわかりません。音楽とはいったい何なのですか? 音楽とは何をしているのか?音楽は何のためにそのようなことをしているのか? よく音楽は精神を高める作用をするなどと言われますが、あれはでたらめです、嘘ですよ!
10年ぐらい前から発行されている光文社古典新訳文庫に、このトルストイをはじめ、ドストエフスキー、ゴーゴリ、レーニン(!)、シェイクスピア、ディケンズ、シャーロット・ブロンテ、バタイユ、サン・テグジュペリ、カント(!!)、ケストナー、ポーなどの「古典新訳」が多数ラインナップされている。読みたい本がありすぎて非常に困っている。さらに昨年ぐらいからSpotifyを聞くようになってから、聞くべき音楽が増えて増えて、ほんとうに困っている。自分が2人か3人欲しいです。
もはや僕の人生は登山で言えば下山の道行きなのだ。不要なモノはなるべく棄てて、身軽になって安全に麓までたどり着きたいのである。にも関わらず読書と音楽の煩悩は未だ覚めやらず。さらに釣りもしなくてはならないのだ。嗚呼、遭難必至。
それにしても音楽は魔物だなあ。もし自分が音楽という趣味を持たなかったら、もっと平穏な、しかし退屈な人生を歩んだに違いないと思う。家族のためにはその方が良かったのかもしれない。
バッハの規律。モーツアルトの享楽。ジョン・レノンの諧謔。レッド・ツエッペリンの爆発。キング・クリムゾンの迷路。マイルス・デイヴィスの美学。バド・パウエルの熱狂。そうしたものに出会わなければ、ロジックとコモンセンス、そして少々の浮き世の智恵に安住した人生を過ごせたに違いない。しかしもはや取り返しがつかない。僕は言葉を商売道具としながらも、言葉が歯がみをしながら俯かざるを得ない局面における音楽の表現力にいつもひれ伏している。
2016年のR.I.P.
子供っぽい純粋さと大人が作ったスターダムの間で呆然と立ち尽くし
鋼のような風にさらわれていったお前。
笑い者であり、異邦人であり、伝説であり、殉教者である
そんなお前だからこそ、さあ、輝くんだ!
(PINK FLOYD「Shine on You Crazy Diamond」拙訳)
Pink Floyd - Shine On You Crazy Diamond (Original Version) - YouTube
1月のデヴィッド・ボウイを皮切りに実に多くのRock Legendたちがお空のDiamondと化した2016年。焦る。後方部隊で戦っていたつもりが、気がつくといきなり砲弾が飛び交う最前線近くにいて呆然とする兵士…のような気分だ。
ビートルズもフーもピンク・フロイドも、すでにメンバーの半分しか生き残っていない。EL&PなんてPしかいない。しかしディランは今世紀も毎年ツアーに勤しみ、今年は何と飄々とした態度でノーベル文学賞を受賞してしまった。あるいはかつてドラッグでガタガタだったストーンズの面々が21世紀もすこぶる元気でニューアルバムも最高なのも気になるが、こちらがすべての厄をブライアン・ジョーンズがあの世に持って行ってしまったのだろう。
ボウイにせよ、キース・エマーソンににせよ、プリンスにせよ、レナード・コーエンにせよ、今年亡くなった面々はどうか安らかに・・・という言葉がもっとも似合わない Crazy Diamondであった。なんてことを思いながらラベルのボレロを口ずさむ年の瀬。
なお、上の写真は私的2016年新譜CDのベスト9だ。もちろん遺言のようなボウイのBlack Starが中心。死に方までかっこよすぎるぜ! コンチクショ〜!
ジョン・レノンが死んだ日 〜Nobody Loves You (when you're down and out) 〜
36年前のことはつい昨日のように思い出せる。僕は大学のラウンジで紙コップのコーラを飲みながらフランス語の試験勉強をしていて、ラウンジに流れるFMラジオ放送の臨時ニュースでジョン・レノンが撃たれた事件を知った。女性ディスクジョッキーの沈鬱な声音まで甦ってくる。あまりにも呆然としてどうやって帰宅したかは、よく覚えていない。しかし、どこかの駅前でラジオから「LET IT BE」が流れてくるのを聞き 、「違う!それはポールだ」と思ったのだけは良く覚えている。
その夜、生まれて初めて、自暴自棄の飲酒をした。家にあったサントリー・リザーブを半分空けた。翌日、二日酔いのままフランス語の授業に出て(出るだけ偉い!)、授業中に目の血管が切れて、血の涙を流した。
あれから36年。振り返れば、俺はいったい何をしてきたのだろうとアタマを抱えたくなる。
ジョンのソロ作で今も愛聴しているのは死後発売された「メンローブ・アベニュー」である。ヨーコと別居してた「心の橋 愛の壁」「ロックンロール」の時代のアウトテイク集。なぜこの作品が良いかと言えば、
1)ヨーコ不在のためジョンが純粋に音楽に向かい合っている
2)デモテイク中心なので、ジョン(及びフィル・スペクター)にありがちなオーバープロデュースがない。
3)クラウス・フォアマン、ジム・ケルトナー、ジェシ・エド・デイヴィスという最高のバンド
この3点に尽きる(敢えて付け加えるとウォホールによるジャケデザインも)。曲も演奏もジョンのソロ史上最高なのだ。特にB面は素晴らしい。そのB面冒頭曲は悪徳マネージャーの誉れ高きアレン・クラインへの惜別の一発!となる「Steel and Glass」、そしてアルバム最終曲の一つ前が自らと別居中のヨーコいずれへの揶揄ともとれる「Nobody Loves You (When you're down and out) 」である。ここでロックンローラー・レノンは自らの終わりを告げたのではないか。
美しいが、魂が抜けたような死の直前の復活作「ダブル・ファンタジー」を聞くたびにそう思う。
※上のリンク、You Tubeに「メンローブ・アベニュー」バージョンがないので、アコースティック・デモバージョンを貼っておいた。どう演奏しようが名曲に変わりない。「Imagine」の300倍好きだ。
女子にはわからぬヒゲの話。
今週はひたすら原稿を書き、企画をまとめる週ということで、もう3日もヒゲ剃っていない。明日からは外出・出張続きなのできれいさっぱりヒゲを剃り、連日のようにスーツを着ることになるだろう。
先日亡くなったキューバのフィデル・カストロは戦闘服とヒゲ面がそのカリスマ性のシンボルだった。冷戦時代に何度もカストロの暗殺を試みていたCIAは、そのヒゲをなくせばカリスマ性もなくなるだろう……という冗談みたいな理由で、特殊な薬物によるヒゲをなくさせる作戦を実行したが、その企てが成功することはなかった。晩年のカストロは戦闘服ではなく米国のアディダスのジャージ姿だったけれど、特にカリスマ性が減退したように思えなかったので、たとえCIAのヒゲ抜き作戦が成功しても彼の地位はビクともしなかったと思われる。
ヒゲの話であった。20代では3日に一度剃れば十分であった。30歳過ぎた頃から、朝剃っても、夕方じゃりじゃりするようになった。きれいに剃りたくていろいろな安全カミソリを試してみた。最初は2枚刃だったが、この四半世紀で製品は5枚刃まで進化した。いろいろ試してみたが、結局、3枚刃ぐらいがいちばん使いやすい。ビジネスホテル備え付けの2枚刃の使い捨て安全カミソリがあるが、あれが意外と悪くないし、コンビニでも売っている2枚刃の使い捨ても使いやすい。
今はシックの3枚刃とジレットの5枚刃を併用している。ベースのホルダー部分は刃の数が増えてもそれほど価格差はなく、かえって新製品は安売りしているのでつい買ってしまう。しかし、刃の数が増えると替え刃の価格が高くなる。つまり、これはパソコンのプリンターと同じ商売の仕方(英語で言うとビジネスモデル)で、なにかしてやられた気分になる。しかも、プリンターのインクには純正以外の廉価製品という選択肢があるが、安全カミソリの替え刃にそれはない。
刃の数が多くなっても、TVCMでやっているように、一剃りですっきり剃れるということはない。刃が増えるほど、カミソリ部分の幅が広がり、鼻の下や口元などが剃りにくくなって、かえって面倒だったりもする。ヒゲの質にもよるのだろうけれど、電気シェーバーも相性が良くない、ブラウンやフィリップスを試してみたが、いまいち。いつか国産メーカーも試してみようと思うが、肌と刃の間に金属板が介在する電気シェーバーの爽快感に欠ける剃り味があまり好きではないのだ。
ところでこういう話は女子のみなさんが聞くとどんな印象を持たれるのだろう。伊丹十三のエッセイ集に既婚女子による「生理についての座談会」というのが収録されていて、10代の僕は目の中が鱗だらけでのけぞるぐらい面白かったのだが、それに比べるとヒゲの話はちとせせこましいような気がしてきた。
以下、現在愛用の安全カミソリを紹介。
※「キレてなーい!」のCMでおなじみの安定の使い心地。が、近年になって替え刃が何故か値上がりし、逆に耐久性が落ちているような気がする。同じホルダで使える安価な2枚刃替刃があるのでそっちにしようかな。
※カートリッジの裏に、鼻の下など5枚刃だと剃りにくい箇所を剃るための1枚刃(ピンポイントトリマー)が内蔵されている。で「5+1」というわけ。慣れれば使いやすいことは確か。
師走のパトリシア・ハイスミス
12月になると、パトリシア・ハイスミスの小説が読みたくなる。理由はわからない。
よって、以下とりとめなく書く。
見当違いの努力ばかりが繰り返されている精神病院。家庭を守るべき女たちが──生徒はほとんど女ばかりだった──最低限の家事さえ怠って出歩いているあいだに、いったい何組の家庭がトラブルに見舞われ、何人の子供や夫が不自由をかこっていることだろう? ボブの見たところ、この総合芸術学院には芸術の霊感はなかった。そこにあるのは、ショパンや、ベートーヴェンや、バッハなど、本物の霊感に恵まれた人々のまねをしたいという欲望だけだった。
(パトリシア・ハイスミス『女嫌いのための小品集 (河出文庫)』より「芸術家」宮脇孝雄訳)
本物の霊感なしに「表現」を行うために必要なのは、ゴミ捨てや家事と同様の報いのない繰り返しであり、そこに自分なりの快楽を見いだす想像力であろう。武道や舞踏などにも通底するが、日常の観察を怠らず、日々の生活の地平を着実に歩むことが大切となる。
かつてジェーン・オースティンは、家事の合間に、台所で小さな紙片に文字を書き綴り『高慢と偏見』や『エマ』を完成させた。しかし、だからといって誰もがオースティンになれるわけではない。現代の日本でつらいのは、表現者個人が歴史的記憶・感覚の欠落させがちなこと。歴史の感覚が欠けた表現は普遍性を獲得できず、仲間内でしか意味をなさない。当面の欲望を共有する人々の世間話といったところか。
インターネットは、この種の世間話の敷居を低くしたが、その一方で、霊感をもてあましながら、途轍もないポテンシャルをさりげなく示す人たちの存在をも明らかにしてきたように思える。「霊感なし」で、ひたすら欲望を持て余している人の居場所は、そういう意味でさらに狭くなっているのかもしれない。いわば知的格差社会だ。
20世紀半ば頃から、そんな知的格差と性差のパーアスペクティブを皮肉な目で眺めつつ、即効性のドラッグと遅効性の毒を含んだ物語を紡ぎ続けてきた作家がパトリシア・ハイスミスだ。
ハイスミスは映画にもなった『太陽がいっぱい』や『見知らぬ乗客』といった往年の名画や昨年公開されカンヌ映画祭でも高く評価された『キャロル』の原作者で、今で言うストーカー殺人の先駆とも言える「妻を殺したかった男」をはじめ、〝最悪の読後感〟が重要な持ち味のミステリ作家である。ポリコレだのLGBTだのの話題が喧しい昨今、彼女が生きていたらさぞややりにくかっただろうなと思う。いや、そんな世間のことなど歯牙にもかけず振る舞ったのかもしれない。おそらくそうだろう。米国人なのに後半生をほとんどヨーロッパで過ごしていることも米国のピューリタン的風俗が気にくわなかったからかもしれない。
一時期、小林信彦氏がプッシュしたおかげか、20年ほど前にハイスミス作品の翻訳本がかなり出た。私は長編を読んだ後に胸のむかつきがなかなか取れなず、もう読むもんかと思っても、なぜか次の本に手が出てしまう麻薬的な魅力に抵抗することができなかった。女嫌いのレズビアンでもある彼女の書いたものの中では短編集が比較的取っつきやすいかもしれない。
- 作者: パトリシアハイスミス,Patricia Highsmith,小倉多加志
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2005/12/08
- メディア: 文庫
- クリック: 13回
- この商品を含むブログ (37件) を見る