プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

師走のパトリシア・ハイスミス

12月になると、パトリシア・ハイスミスの小説が読みたくなる。理由はわからない。
よって、以下とりとめなく書く。

Little Tales of Misogyny: A Virago Modern Classic (VMC) (English Edition)

見当違いの努力ばかりが繰り返されている精神病院。家庭を守るべき女たちが──生徒はほとんど女ばかりだった──最低限の家事さえ怠って出歩いているあいだに、いったい何組の家庭がトラブルに見舞われ、何人の子供や夫が不自由をかこっていることだろう? ボブの見たところ、この総合芸術学院には芸術の霊感はなかった。そこにあるのは、ショパンや、ベートーヴェンや、バッハなど、本物の霊感に恵まれた人々のまねをしたいという欲望だけだった。

パトリシア・ハイスミス女嫌いのための小品集 (河出文庫)』より「芸術家宮脇孝雄訳)

 

 本物の霊感なしに「表現」を行うために必要なのは、ゴミ捨てや家事と同様の報いのない繰り返しであり、そこに自分なりの快楽を見いだす想像力であろう。武道や舞踏などにも通底するが、日常の観察を怠らず、日々の生活の地平を着実に歩むことが大切となる。

かつてジェーン・オースティンは、家事の合間に、台所で小さな紙片に文字を書き綴り『高慢と偏見』や『エマ』を完成させた。しかし、だからといって誰もがオースティンになれるわけではない。現代の日本でつらいのは、表現者個人が歴史的記憶・感覚の欠落させがちなこと。歴史の感覚が欠けた表現は普遍性を獲得できず、仲間内でしか意味をなさない。当面の欲望を共有する人々の世間話といったところか。

インターネットは、この種の世間話の敷居を低くしたが、その一方で、霊感をもてあましながら、途轍もないポテンシャルをさりげなく示す人たちの存在をも明らかにしてきたように思える。「霊感なし」で、ひたすら欲望を持て余している人の居場所は、そういう意味でさらに狭くなっているのかもしれない。いわば知的格差社会だ。

 

 20世紀半ば頃から、そんな知的格差と性差のパーアスペクティブを皮肉な目で眺めつつ、即効性のドラッグと遅効性の毒を含んだ物語を紡ぎ続けてきた作家がパトリシア・ハイスミスだ。

 ハイスミスは映画にもなった『太陽がいっぱい』や『見知らぬ乗客』といった往年の名画や昨年公開されカンヌ映画祭でも高く評価された『キャロル』の原作者で、今で言うストーカー殺人の先駆とも言える「妻を殺したかった男」をはじめ、〝最悪の読後感〟が重要な持ち味のミステリ作家である。ポリコレだのLGBTだのの話題が喧しい昨今、彼女が生きていたらさぞややりにくかっただろうなと思う。いや、そんな世間のことなど歯牙にもかけず振る舞ったのかもしれない。おそらくそうだろう。米国人なのに後半生をほとんどヨーロッパで過ごしていることも米国のピューリタン的風俗が気にくわなかったからかもしれない。

一時期、小林信彦氏がプッシュしたおかげか、20年ほど前にハイスミス作品の翻訳本がかなり出た。私は長編を読んだ後に胸のむかつきがなかなか取れなず、もう読むもんかと思っても、なぜか次の本に手が出てしまう麻薬的な魅力に抵抗することができなかった。女嫌いのレズビアンでもある彼女の書いたものの中では短編集が比較的取っつきやすいかもしれない。

と思って検索してみたら、僕が好きなこの『女嫌いのための小品集 (河出文庫)』はすでに絶版らしく、Amazonでも英語のペーパーバック本しかなさそう。どうやら短編集としては『11の物語 (ハヤカワ・ミステリ文庫) 』が入手しやすそうである。

 

11の物語 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

11の物語 (ハヤカワ・ミステリ文庫)