プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

庄司薫が亡くなった。

台風接近に伴う片頭痛で目覚めた朝、庄司薫こと福田章二の訃報を目にした。妻だった中村紘子が亡くなったのはいつだっけ?と調べてみると2016年、ちょうど10年前だ。光陰矢の如しの思いに駆られつつ、学生時代のデビュー作を収めた『喪失』と最後の小説作品「ぼくの大好きな青髭」を取り出して、仕事の合間に眺めていた。この2冊の間が彼の文学活動のすべてである。
私くらいの世代の文学好き中学生は、同時代の現役作家として星新一、筒井康隆、小松左京などSF作家たちとともに、遠藤周作、北杜夫、井上ひさし、大江健三郎、倉橋由美子、柴田翔、そして庄司薫の作品を読んでいた。もちろん人によって倉橋は読んでないとか、大江健三郎わけわからんとかあったかもしれないが、庄司薫は当時としてはポップな文体と作品数が少ないこともあって、ほぼみんな読んでいた。そうそう映画化もされていたんだった。
さて中学時代に「薫くんシリーズ」3作を文庫本で読んで感銘を受けた私が高校入学後、最初の夏休み前になんと「薫くんシリーズ」の新作が本屋に並んでいた。「え? 『快傑黒頭巾』でお終いじゃなかったのか?」と驚き、夏休みが終わる前に買い求めて読んだ。面白くないわけではないんだけど、いやむしろ当時の自分にいろいろと刺さるポイントは多かったんだけど、読後「この4作目は必要だったの?」という割り切れなさは残った。もちろん作者には必要だったのだろう。
前作『黒頭巾』と『青髭』の間には約6年のブランクがあり、作品に描かれた1969年とは8年近いタイムラグがある。
その間、大阪万博と三島由紀夫の割腹があり、「よど号」ハイジャック事件、浅間山荘事件、連続企業爆破事件、三里塚闘争、日本赤軍のメンバーが海外で引き起こしたテロ事件があった。若者達は権力と戦うという正義をかかげて暴力に訴えたが、ことごとく負け続け、正義そのものの意味が失われていった「喪失」の8年間。結局、この『青髭』は「薫くんシリーズ」のみならず、作者最後の小説作品となってしまう。
私はといえば、高校時代に国内作家では橋本治や村上春樹の小説を発見してしまい、大学入学後はもっぱら専門の欧米文学を 渉猟 してきたので、すっかり庄司薫とは縁遠くなった。橋本や村上の文体や問題意識に慣れてくると薫くんの語りはちょっと若造りのおじさん風にまだるっこしく感じてしまうのはしょうがない。
「薫くんシリーズ」は発表時に同じく10代の少年の思いを描いたJ.D.サリンジャーの模倣とも言われたらしい…寡作と沈黙の時代の長さやメディア露出の少なさもサリンジャー的ではある。そういえば今やノーベル賞候補の村上春樹もデビュー時にはカート・ヴォネガットのエピゴーネン扱いされていた。まあ、ビートルズと矢沢永吉のキャロル、ピンク・フロイドと四人囃子みたいなものと思えば、別に問題ないんじゃないかと思うし、今やそんなことをあえて問題にする人はいないだろう。
庄司薫の小説と縁遠くなって以降も、彼が大きな影響を受けたとエッセイで語っていた思想家・林達夫の著書は折に触れてページをめくってきた。今でもだ。『思想の運命』『歴史の暮方』、そして日本人による共産主義批判の嚆矢といえる『共産主義的人間』の3作は薫くんシリーズと同じ中公文庫で安価に入手できた。ちなみに中公文庫版『共産主義的人間』の解説は庄司薫、『思想の運命』の解説は大江健三郎が書いている。