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プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

Memento mori 〜墓を買った話〜

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今夏は昨年9月に死んだ父の新盆である。パソコンのアーカイブを探ってたら、9年前に書いた文章が出てきた。父が墓を買った時の話である。懐かしいので 以下に再録。

 

先日、父親が自分が入る為の墓地を購入した。そこは自宅から徒歩で行ける浄土宗の寺院内にある。関西人であり、関西を離れて半世紀以上になる現在も関西弁を話す父だが、特に関西にこだわりがある訳ではないようだ。骨を埋めるのはどこでもいいらしい。昔は、「墓も葬式もいらん。火葬だけして灰はどこかの山の上から散骨してくれ」といっていた。夏山単独行が唯一の趣味らしい趣味だった。それも50歳くらいでやめた。南アルプスでの最後の夏山登山の帰り、疲れて岩陰で休んでいたら、「おじいさん、だいじょうぶ?」と若い登山者に言われ、「おじいさんと言われたら、もう登山家としてのオレはおしまいや」と思ったそうだ。それで大学以来の趣味をきっぱりやめてしまった。

 

昭和ヒトケタ、終戦時を15歳で迎えた彼は、徹底した相対主義者であり、多数が信じること、賛成することに対して必ず異論を言いたがる人である。しかしまた、関西商人の息子らしく、徹底的に現実主義者でもある。こういう人は職場でも、家庭でもメーワクな存在でもあるわけだが、不思議に憎まれない。いや、職場(新聞社)では真面目すぎる人にかなり嫌われていたようだし、社内バッシングもあった。そこらへんのことを、退職後に出版した著書に淡々と書いていた。

 

自分の墓を買うというのはどういう気分なのだろうか。今度訊いてみたい。これまでずっと親族の寺院に預けていた2歳で死んだ妹の骨が、父より先にそこに入る予定。そして、おそらくは私もいつかそこに入るのだろう。

 

父の通夜には元同僚、部下の方が多くいらっしゃった。通夜の席で酔っ払って語る父のエピソードはかなり暴露的なものでもそれぞれの愛情表現のように聞こえた。まあ、私という息子を前にしてのことだということもあっただろうが、概ね愛されていたんだなと確認できてそれは良かった。