プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

御木貴日止さんの訃報とかつてBCLだった私

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PL教団の3代目教祖御木貴日止さんの訃報が流れ、個人的には深い感慨におそわれた。
PL教団」といえば、傘下の高等学校がかつて高校野球の強豪校だったことで一般的に知られている。私も小学生の頃から大阪府代表のPL高校の活躍に目をとめていたが、いま感慨を感じるのはそちらではない。

私は中学~高校にかけてラジオ少年だった。帰宅後の熱心なリスナーであり、秋葉原で部品をあつめてラジオ工作にも手を染めた。当時、海外の短波放送を聴取するBCL(Broadcasting Listening / Listeners)という趣味がブームで、私も期末試験の成績をダシに短波ラジオを買ってもらい、庭にワイヤーアンテナを張って、海外の日本語放送や欧米の英語放送を中心に聞いていた。

70年代半ばのBCLブームの頂点の時代には、短波ラジオに力を入れていたソニーとナショナル(現パナソニック)が提供するBCL番組も放送されており、ナショナルが提供する「BCLワールドタムタム」(日本短波放送)のパーソナリティは無線マニアのタモリであった。また、その番組に出演していたのが、やはりブームをあてこんで創刊されていた月刊「短波」の筆者陣で、この雑誌の発行元は「日本BCL連盟」という団体だった。

 Wikipediaを参照すると日本BCL連盟は

1975年10月15日設立。1976年1月から雑誌『月刊短波』を刊行。また、会員に向けて会報誌『Hz』などを出版するなど、BCLに関する情報を会内外に発信してそのブームを支えた。『月刊短波』は1983年7月に休刊し、1983年11月には社団法人としての日本BCL連盟は解散した。

とある。まさにBCLブームの盛衰とともにあった団体といえるだろう。そしてこの連盟代表で、月刊短波の発行人が御木貴日止さんだったのだ。日本BCL連盟解散の時期はちょうど御木さんが第3代教祖となった時期と重なる。雑誌主催のイベントレポートなどの記事でその威風堂々としたご尊顔は読者であればしばしば目にしていただろう。ちなみに私は創刊より1979年ぐらいまではほぼ定期購読していた。なんどか受信レポートを掲載してもらったこともある。学生時代のやくみつるさんがイラストを投稿していたことでも知られている。

今ではインターネットで世界中から確度の高い情報が容易に入手できる。公共放送用短波放送はその役割をほとんど終えたといえるだろう。ノイズやジャミングの向こうからかすかに届けられる遠方の国からの放送に耳をそばだてるあの感覚はもはや意味のないものだ。しかし、東欧や南米から届く言葉もわからないBroadcastingに感じた人間や世界に対するどこかロマンチックな愛惜に、宗教にも似た人間の本質に根ざす心の震えを確かに感じた。その記憶は死ぬまで残るだろう。宗教家の御木さんにそういうお話をうかがいたかったと、今更ながらに思う。

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