震災と電話について
Devastation in Haramachi-ku,
こういう私のざまを「精神の荒廃。」と言う人もいる。が、人の生死には本来、どんな意味も、どんな価値もない。その点では鳥獣虫魚の生死と何変わることはない。ただ、人の生死に意味や価値があるかのような言説が、人の世に行われてきただけだ。従ってこういう文章を書くことの根源は、それ自体が空虚である。けれども、人が生きるためには、不可避的に生きることの意味を問わねばならない。この矛盾を「言葉として生きる。」ことが、私には生きることだった。
(車谷長吉『赤目四十八瀧心中未遂』より)
私は久しぶり(10年とか20年とか)に会った人から「あんまり変わってないねえ」と薄笑いで言われるタイプの人間なのだが、自分としてはあるときを契機に少なくとも内側は大きく変わったと思っている。それが1995年、年頭に阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件が立て続けに起こったあの年だ。
一言で言うとリアリストになった。もっと噛み砕くと「守り」に入った。翌年、初めての子どもができたので、守りはいっそう強化される。守りというと内向きの姿勢とも感じられるが、自分以外の誰かを守るために死ぬこともアリかな、と思えるようになった、ということでもある。少なくとも1995年以前に自分がそんなことを考えるようになるとは想像すらできなかった。そしてまた、いざという時のために簡単に死ねないな、とも思うようになった。それまではいつ死んでも、「ま、いっか」であった。
そういえば携帯電話を持つようになったのもその年だった。震災後、神戸や西宮、伊丹の親戚と連絡が取れたのは携帯電話によってだった(それでも数日後だった)。 2011年3月の東日本大震災の時は逆に携帯電話がまったくつながらなくなったが、なぜかツイッターではいろんな人と連絡が取れた。その翌年からはスマートフォンを使い始め、今では仕事でも必須のツールになっているが、どこかで私はそれが「非常時」のためのツールだと思っているフシがある。
東日本大震災の衝撃で自分が変わったかは、自分自身でまだよくわからない。
2月も半分以上が過ぎ、今年もまもなく3月11日がやってくる。TVの報道番組であの津波の情景がまた繰り返されるのだろうか? 「これはいったいなんなんだ?」という当時の思いが蘇ってくる。「もう6年」「まだ6年」……両方の思いがせめぎ合いながら、心の隅で無意味に焦っている自分がいる。ぎゅっとスマホを握りしめる。
もしもし、元気?
どうしてた?
あのずっと、ずっと、ずっと、寂しい夜を過ごして。
それが僕の言いたいこと。
なにもかもキミに話すよ。
電話さえとってくれたなら。
(Electric Light Orchestra / Telephone Line (1976) 抜粋訳)