プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

戦争と貧困 〜山田参助『あれよ星屑』へのオマージュ

 

 

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 「貧困」が大きな社会問題となり、実際、奨学金や年金、生活保護などにおいてさまざまな制度的矛盾が露呈してしまっている。

 現在55歳の僕が物心ついた頃は、まだ日本は貧しかった。目に見えて貧しかった。わが家はそれほど貧しくはなかったが、身近に貧困家庭はふつうに見られ、小学校に数日間同じ服で通している子どもは珍しくなかった。もちろんしばしばイジメのネタにされた。しかし逆にいつもきれいなお洋服を着たいかにも金持ち面した子どもも同様にイジメの対象になった。子どもにとって「貧しさ」そのものはおそらく大した意味を持たなかったのだ。

  先進国に追いつけ追い越せ的な途上国のムードが社会にむんむん漂っていたのを感じていた。テレビでやっているアメリカのテレビドラマを見るとこんな国と戦争をした当時の日本人が実に馬鹿野郎に思えた。広い庭がある家、最新の電化製品、大きな自家用車、軽妙で洗練された家族の会話……日本人もいつかこういう〝デラックス〟な暮らしができるようになるのだろうかと夢想した。

NTTではなく電電公社の時代、貧しい家は高額な「電話加入権」を払えず、隣近所の電話を借りる「呼び出し」家庭も少なくなかった。個人が携帯電話を持つ最近の貧困がピンと来ないのはそのせいもある。

  一方、繁華街には傷痍軍人が募金(というか実質は物乞い)をする姿を見たし、あちらこちらで戦時中の体験談が盛り上がるなど戦後が続いていた。今から思えばそれが全共闘の敗北、大阪万博開催、三島由紀夫の自決あたりを契機にがらっとムードが変わっていったように思える。そのすぐ先にはドルショック、中国との国交回復、オイルショックなどが続いた。成田に新東京国際空港が開設され、A級戦犯が処刑された巣鴨プリズン跡に60階の高層ビルができ、日米貿易摩擦のぎくしゃくなどを経てバブル経済とその崩壊に至った。

 

 個人的には日本の「戦後」はそこ=バブル崩壊で終わったと感じている。


 「現在の貧困問題は、あの異常な状況であったバブル経済を基準にしているから無意味だ」という議論もあり、感覚的にはわからなくはないのだが、それは間違っているだろう。戦後とそれ以降では「貧困」の性質や定義がそもそも異なってきている。先ほど触れた「携帯やスマホを持つ貧困」がその一例である。ではその「貧困の性質や定義」の違いとはなんであろうか? 端的に言えば、持てる貧困と持たざる貧困ということであり、豊かな生活への渇望の絶対量ではないかと思う。東京をはじめとする大都市が火の海にされ、広島と長崎に原爆が投下されてようやく太平洋戦争が終わり、多くを失った日本人は失ったモノの大きさがそのまま成長のベクトルとなったような驚くべき復興を遂げた。その先に夢見たのはアメリカのドラマに出てくるような豊かな生活だろう。それは実現したのだろうか。したとも言えるし、していないとも言える。しかしバブル崩壊によってそのベクトルは失われてしまった。ふと気付くと豊かな生活への渇望は自然環境破壊、コミュニティ崩壊、さらに近年話題のブラック労働などを生み出し、豊かになったはずの日本人はどこか釈然としていない。

  すべての始まりは戦争に負けたことにあるのだから、そこから見つめ直せばいいようにも思えるのだが、どうも不毛な憲法論議やイデオロギッシュな平和論に終始してラチがあかない。

 

 このところ私が敗戦を考えるきっかけとしているのは”コミックビーム”にて連載中の『あれよ星屑』(山田参助)というマンガだ。現在、単行本が5巻まで出ている。来月には6巻が出る。待ち遠しい。物語はこんな感じで始まる。
 

度重なる空襲で、焼け野原となった敗戦直後の東京。誰もが生きるために精一杯のその町で、復員兵の川島徳太郎は、闇市で雑炊屋を営みながら、酒浸りの日々を送っていた。

ある日川島は、無銭飲食をして暴れていた、軍隊時代の部下である黒田門松に出会う。再会を喜ぶ門松であったが、以前とは様子が違う川島に、故郷に帰るよう冷たく突き放されてしまう。しかし、門松は元上司の命令に従うことなく、なんだかんだと川島の元に居着くことになる。
(単行本1巻あらすじ)

 

 インテリで二枚目の川島と、おっちょこちょいで力自慢の三枚目である黒田の「男の友情」が物語の基本的な骨格となっている。ちなみに作者は『さぶ』でデビューしたゲイマンガの第一人者だ。私より若いにもかかわらず、焼け跡と闇市に生きる人々の体臭までもが感じられるような描写、人物造形のリアリティが半端ない。主要登場人物の何人かが、僕の夢の中に実在の人物として出てきたこともあるぐらいだ。絵なのに……。
 ここに描かれた「貧困」はまさしく「貧困」としかいいようがない「貧困」。親を空襲で失った子どもたちは彼らなりのたくましさとビジョンで、病気と死、孤児狩りの危険と隣り合わせの環境で日々の糧を得ていく。貧困の中での争いもあれば、友情と連帯もある。もちろん子どもたちには夢もある。牧歌的で儚い夢が。

 回想シーンでは、戦地の慰安所や戦時中の中国人捕虜のなぶり殺しなどもしっかり書き込まれており、軍隊内の描写も実に説得力にあふれている。あまりにもリアルなせいか、こうしたデリケートなシーンに対する右翼団体ネトウヨの抗議とかもまったくないそうだ。作者は小学生時代、図書館にあった古い報道写真を集めた毎日新聞社の『一億人の昭和史』が愛読書だったそうで、同じ頃に明治〜昭和前期の朝日新聞縮刷版が愛読書だった私は大いに共感を覚える。
 作者はインタビューでこんな事を言っていた。

山田 50~60年代の日本映画が好きで。その頃に作られた戦争ものって、実際に戦地から帰った人たちが作っているわけですから、その人たちが体験的に見知っているものが映画に出てくるわけです。

 あるいはこんなことも。

 

山田 はい。今まであまりマンガでは描かれてこなかったような地味な軍服のシルエットを描きたいですね。マンガ表現としての軍服を、2015年版としてアップデートして、形として残しておきたいんです。たとえば戦闘帽にはシルエットとしてのよさがあると思っているんですけど、それをマンガでちゃんと描きたい。で、次世代がまたアップデートしてくれたらいいな、と。

 徹底したリアリティーの追求。着ている洋服やパンパンや闇市などの風俗、米兵、在日朝鮮人らが混在する街の描写が、作品にまるで見てきたようにさらりと書き込まれている。こうしたディティールへのこだわりが、人間模様渦巻くストーリーテリングと時代性を一層強固にしており、戦争という出来事が人間生活にもたらす災禍を真に迫って余すところなく書き尽くしている。戦争の悲惨さを読者に問いかけるマンガは数多くあれど、これほど戦争そのものの意味を読者に突きつけるマンガは珍しいのではないか。この二つはあまり区別されていないような気がするが、違いは大きいと思う。おそらく作者にイデオロギー的な反戦思想はまったくないだろう。それだけに戦争に向ける眼差しは無垢で、鋭いのだ。2017年を生きる私たちがどこから来て、どこへ行こうとしていたのか? ……作中の登場人物一人ひとりが読者に向かって「それを忘れてもらっちゃ困る!」と無言で語りかけているように思える。

 ところで昨今、広島への原爆投下をテーマとするマンガ『この世界の片隅に』の映画化作品が話題だが、見ていない。見たら感動するかもとは思うが、どうも見る気が起きないのはあの手のアニメ映画の絵柄が苦手だから。同じような理由で宮崎アニメもほぼ見ることができない。これはどうしたものかと思うのだが、こればかりはどうしようもない。