プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

おれは間違って生まれた〜『樅ノ木は残った』雑感

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——おれは間違って生まれた。
 と甲斐は心の中で呟いた。けものを狩り、木を伐り、雪に埋もれた山の中で、寝袋にもぐって眠り、一人でこういう食事をする。そして欲しくなれば、ふじこやなをこのような娘たちを掠って、藁堆や馬草の中で思うままに寝る。それがおれの望みだ。四千石の館も要らない。伊達藩宿老の家格も要らない。自分には弓と手斧と山刀と、寝袋があれば充分だ。
山本周五郎『樅ノ木は残った』より)

生きる経路を間違っていたということに気づくのは、たいがい四十を過ぎてからじゃないだろうか。この作品の主人公である原田甲斐は厄年で、今の私はすでにそれから10年も年を重ねた。若い頃は、何かとぶいぶいしたいわけなので、本来の生まれなどという考えはなかなかなじまない。逆に若いうちからそんなことを考えている人間は、三十くらいで出口のない迷宮から出られなくなる。難しいものである。
『樅ノ木は残った』は、伊達騒動の新解釈ということで評判になり、大河ドラマの原作にもなった周五郎の代表作だが、その心は絶対的な孤独の中で生きる凄まじさと、情と欲でつながる人間同士の関係の儚さであろうかと思う。山本周五郎は四十代にとっての太宰治、という奥野健男の評言は当たっている。読んでいるとスマホを膝でぶち折って、森に入りたくなる。