プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

ビートルズ来日と妹の死

道路の上でやっちまおう。誰も見てないぜ。ほら、道路の上でやっちまおうよ。(THE BEATLES「Why Don't We Do it in the Road』拙訳)

https://www.youtube.com/watch?v=5AdtR-d2HJQ

 

また、「身近な死」の話である。

先週はビートルズ来日50周年ということもあり、オフィスのBGMであるJ-WAVEでも、ひんぱんにビートルズナンバーが流れた。もう半世紀近く聴いている音楽。でも、まったく飽きない。で、ビートルズの曲はやはりラジオから流れてくるのを聴くのが、いちばん具合がよろしい、ということにあらためて感じ入った。当然ながら当時ジョージ・マーティンを中心としたビートルズチームはそういう風に音作りをしていた訳である。だから、基本的に初期ビートルズはモノラルで聴くのが正しい。でもまあ、そんなことはどうでもよろしい。来日した1966年、私は4歳半だったので当然ながら武道館には行っていないが、来日騒ぎはなんとなく覚えている。すでに高度経済成長は始まっていたが、まだ戦争の匂いがあちこちに残っていた。確か、NHK朝のテレビ小説で「おはなはん」をやっていた年だ。昨年、その朝ドラの舞台となった愛媛県大洲市に仕事で訪れ、市の中心部にある「おはなはん通り」を歩きながら1966年の自分を思い起こした。4歳の私はビートルズの「イエーイエー!」よりベンチャーズの「テケテケテケテケ」の方にインパクトを感じていた気がする。そしてビートルズが日本を去って2ヶ月後に、双子の妹のうち一人が2歳でこの世を去った。私はその意味がよくわからず、告別式の日、家のリビングルームにしつらえられた祭壇や豪華な袈裟まとった僧侶が来たことで、なんだかウキウキしてしまったのである。妹は死んだが、ほとんど同じ顔をした双子のもう一人が生きていたので、悲しさもほどほど、といったところだったのかもしれない。だが家庭に与えた影響は甚大で、その後、我が家はしばらくの間、空中分解した。また、ビートルズはこの年でコンサート活動をやめ、翌年、バンドの立役者であったブライアン・エプスタインが不可解な死を遂げた。上に引用した曲は、来日2年後の1968年に発表された「 THE BEATLES(通称:ホワイトアルバム)」に収録されたポール・マッカートニーの単独作で、上の歌詞を何度も何度も繰り返しシャウトしまくるパンクロックの先駆というべきナンバー。ドラム以外の楽器は自分で演奏している。当時、メンバー中でも一番とんがっていたのがポールで、同アルバムにはポール作のヘヴィメタリックな「ヘルター・スケルター」も収録されている。ボードヴィル調の「ハニーパイ」、生ギター弾き語りの名曲「ブラックバード」「マザー・ネイチャーズ・サン」もこのアルバムで、まさに才能爆発という感じ。ヨーコと出会ったレノンは、やや停滞していた。いまでは亡くなった元妻リンダの影響でベジタリアン&健康志向のポールだが、当時はラークを一日2~3箱空けるヘヴィースモーカーでもあり、もちろんドラッグ類もたしなんでいたわけで、死と隣り合わせにあの美しくも革新的な楽曲群をつくり、奏で、歌っていたのである。The Beatles (The White Album)