プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

ハン・ガン『少年が来る』雑感

 
 昨年のノーベル文学賞を受賞した作者の代表作。各所で紹介されている通り、この作品は1980年の民主化を求める市民と軍事政権の衝突「光州事件」に材を取っている。
この10日間の騒乱中に15歳で軍に射殺された少年を中心に、彼と同様に命を失った人々、またかろうじて生き延びた人々の過去と現在を、1人称、2人称、3人称をあえて混交させながら、時には「霊」の声を用いながら、執拗に描いている。
作品は6章とエピローグの7つの章で構成されているが、そのうち半分は主に死体と死臭について書かれている。私はあまりに重い内容がキツくて一気読みできず、二度読むのを中断し(その間、気分転換になる別の本を読んで)、ようやくすべてを読み終えた。この小説には光州事件がどのようなものであるかはほとんど語られていない。ただただ暴力が吹き荒れ、次々と死体が積み上がって行き、腐敗していくだけだ。死体の向こうの風景はほとんど見えない(当時の事件当事者にとっても同様だっただろう)。
それというのもこの小説は民主化運動という政治事象を描くことがテーマではないからだ。光州事件という自国で起きた筆舌尽くしがたい惨事の中に、作家が見出した人間存在の多重性、すなわち獣性と聖性、あるいは残酷さと慈悲に引き裂かれた人間の精神の有り様を見つめ、それを人間を描くためにある文学作品として定着させることをひたすら志向する。
作者は幼少時に光州市に住んでいたが事件当時にはソウル近郊に転居していた。なじみのある土地に起きた自分は体験していない歴史的な惨事。関係者、被害者にはあえてインタビューせず、膨大な資料(文書や写真等)を丹念に読み込んで自らの内面を経て小説化した。そのためノンフィクションではないが、純粋なフィクションとも少し違う。死んだ15歳の少年は実在のモデルがいるらしい。エピローグではそこら辺の事情も多少フィクションを交えて描かれている。
現在は民主国家となった韓国だが、しかし光州事件当時の宿痾が完全に払拭されたわけではないことは政権交代のたびに起きる騒動で明らかだと思う。個人的にはこうした韓国の宿痾は日本より強い儒教道徳と人口の3~4割を占めるキリスト教(特にプロテスタント)の倫理観に縛られているからではないかと思っている。
この作品を読了してこの作者の日本語訳された小説はすべて読んだことになる。感心するのは、作者が作品のテーマに応じて小説の手法や文体をすべて変えていることだ。これはなかなか出来ることではない。もちろん全作品に共通する「ハンガンらしさ」みたいなものはあるのだが。