プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

稲垣栄洋「生き物の死にざま」を読んだよ。

 

 

30種類の動物の「死にざま」を、雑草生態学の専門家である著者がそこはかとないペーソスを秘めた文章で淡々と叙述していくサイエンス・ノンフィクション。単行本発行時から気になっていた本だが、早々に文庫化されたので買ってみた。おもろい。

 

「死」について語りながら、実際のところ著者は「生」のあり方を読者に問いかけている。つまり「生」と「死」は表裏一体、いや見る角度によってそれを「生」と呼んだり、「死」と呼んだりしているだけなんだとつくづく思わされる。さらに個にとっての「生」とは、様々な種の存続と生態系全体の働きの中での単なるプロセスであり、ほんの1エピソードに過ぎないことがよくわかった。

 

本書で取り上げられるセミ、ハサミムシ、カゲロウ、チョウチンアンコウヒキガエルジョロウグモ、シマウマとライオン、ゾウ、などおなじみの動物も「死」という側面から眺めるとそれぞれ独特の修羅の道を歩んでいる。人間のように自己実現などということは考えない彼らはそれぞれの修羅のカタチに忠実に朽ち果てていく。野生の厳しさを「弱肉強食」という言葉で表すことがあるが、実は「強食」のサイドの動物たちもじつに哀れで悲惨な最期を遂げることになるのだ。

本書にはアンテキヌス、イエティクラブ、マリンスノー、ハダカデバネズミといった耳慣れない生物も取り上げられているが、それぞれの生きざま=死にざまは、そもそもわれわれ人間を含む地球上の生き物というのが計り知れない謎の存在であることを思い出させてくれる。マリンスノーとハダカデバネズミは寿命がない、いわば不老の生き物だ。こうした生き物にとって果たして「死」とはなんだろう?

本書を読んでそんなことをオタオタと考えながら、やがて寿命を迎えて死んでいく人間こそが、もっとも奇天烈な生き物なのかもしれない。