プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

「一度きりの大泉の話」萩尾望都 を一気読みした。

一度きりの大泉の話

一度きりの大泉の話


読み始めたら、やめられなくて引き込まれるように読んで、結局一晩で12万字を読み終えてしまった。おかげで今日は寝不足である。しかし、決して読みやすい本ではない。

 

かつて新人時代の萩尾望都竹宮恵子練馬区大泉で同居生活を送り、その後に何らかの理由で決裂したらしい…という話は少女マンガファンの間でなんとなく知られていた。僕自身も表現者としてのライバル同士だし、それなりに確執はあるんだろう、と「よくある話」として受け取っていた。

本書はそれまで萩尾が封印していたその確執の核心を語った一種の回想録だ。しかし、郷愁と共に過去を思い返すというものではまるでない。そもそも本書は書きたくなかったことを、イヤイヤ書き記したという異様な成り立ちの重い一冊なのだ。

 

本書が書かれたそもそもの発端は、2016年に竹宮恵子が「少年の名はジルベール」(小学館)という回想録をだしたことによる。そこで大泉での萩尾との共同生活の解消について「(萩尾の才能への)ジェラシーを感じ」「焦りや引け目」を募らせ、その結果、大泉の家が「精神的に非常にきつい場所」になっていったと書かれている。しかし当時萩尾にはその理由を言わず、ただ「距離を置きたい」と告げて、付き合いを完全に遮断した。竹宮は半世紀前のその経緯を「若き日の苦いエピソード」としてきれいにまとめている。

竹宮の「少年の名はジルベール」が出たことで萩尾の元にも「大泉時代のことを語ってほしい」「竹宮さんと当時について対談をしませんか。竹宮さんはOKと言っている」「大泉時代の話をドラマ化したい」などの問い合わせがひっきりなしに寄せられるようになった。萩尾にとってそれは未だ癒えぬ傷をえぐられるような体験だったらしい。苦渋の中で当時を語ることを決心。それが本書タイトル「一度きり」という言葉に込められた思いだ。


萩尾の語る「大泉解散」の経緯は決して「よくある話」「若き日の苦いエピソード」ではなかった。「少年の名はジルベール」は竹宮から萩尾の元にも送られてきたが、萩尾は読まずに返送している。本書を通して萩尾は少女マンガに限らず、同時代のマンガ作品を精力的に読んでいることがわかるが、「大泉解散」以降、竹宮作品を一切読んでいないと明言している。

「いったい大泉で何があったか」については、本書を読んでもらうしかないが、一言で言えば萩尾は嘘とごまかしが許せなかったのだと思う。どちらの回想録も読みくらべた読者には竹宮が「少年の名はジルベール」の時点でも決して全てを告白しておらず、核心部をオブラートに包んでごまかしている可能性が高いと感じるだろう。

 対して萩尾は本書執筆時点においても、竹宮の嘘をあらためて当時の友人に問い合わせて検証している。萩尾は今も竹宮の嘘を許していないし、表現者としての圧倒的な矜持がそこにはある。

人に嘘をつかれるのが許せない萩尾をあらわすエピソードで、マンガ嫌いで萩尾が漫画家になるのを(そしてなってからも)ずっと反対だった母親が、取材に訪れた新聞記者に「マンガを反対したことはありません」とついた嘘を徹底的に問い詰めるくだりが描かれている。その追求の徹底ぶりは母親が気の毒になるくらいだ。

 

かといって竹宮と大泉時代からそのブレーン的存在で、同じく縁を切った増山法恵への恨み辛みをぶつけた本では全くない。むしろこの二人が構想していた「少女漫画革命」を自分が台無しにしたであろうことを強くわびているのだ。「素晴らしい喝采がやって来るはずだったのです。それを私がぶち壊した」(325ページ)。そして随所で竹宮のマンガの才能と頭の良さ、人間性を賞賛している。いったいそれは真意なのか。それとも………。

さて、本書の大きな魅力の一つは、大泉時代に描かれた『トーマの心臓』などのクロッキーが多くフィーチャーされていることだ。萩尾はクロッキーブックにキャラクターの試作を描いたほか、当時の出来事を日記メモ風に残していたらしい。本書もそのクロッキーブックの記録を骨子に成り立っているようだ

さらに大泉時代の友人で病気により漫画家を引退せざるを得なかった池田いくみ(1999年没)の作品を大泉解散後に心の傷を癒やすための英国旅行中にリメイクした「ハワードさんの新聞広告」という短編作品が収録されている。「なぜこの作品を丸々掲載したのか?」。それを考えるとますます本書と萩尾の心の中の底知れなさを感じることになる。作品自体はコミカルでペーソスあふれるシンプルなものなのだが。

いずれにせよ本書が書かれたことよって日本少女漫画史上最大のミステリー「大泉解散」はまた封印された。もう二度と解かれることはないだろう。

 

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