プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

コロナ禍の蟄居生活の中で積んでおいた神吉拓郎『私生活』を読む。

 

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私生活 (P+D BOOKS)

 

 

2月下旬に有楽町・交通会館の三省堂で見つけて買っておいた神吉拓郎『私生活』。1983年第90回直木賞受賞を受賞した短編集で、以前は文春文庫で出ていたが、今年2月に小学館P+D BOOKSとしてペーパーバックでも刊行された。文庫より字も大きいので老眼中高年にはありがたいことである。

 

神吉拓郎はもともと三木鶏郎門下の放送作家からスタートしており、市井のドラマをしみじみと描くその手法は、昭和のテレビドラマにも通じる。文字量としてはショートショートに近い各編、それぞれ異なる余韻を残す。こうした短編小説を読むことが(おそらく書かれることも)少なくなっていたので、読後感はとても新鮮である。どの一文を除いても作品世界は成立しない。鍛え抜かれたボクサーの身体のような贅肉を感じさせない文章に身の引き締まる思いがした。

 

神吉さんはどうやら釣りが好きだったらしく、この短編集にも『釣り場』という作品が収録されている。湖での鯉釣りの話で、その冒頭部はこうだ。

 

「穴場なんてものはね、そうあるもんじゃないです」

その老人は、そういって、言葉を切った。

鼻の穴から、煙草の煙の残りが、薄く漂い出て、すぐにどこかへ消えてしまった。

 

見事な導入である。老人が吐き出した体臭交じりの煙の臭いさえ漂ってきそうだ。穴場なんて自分がそう思っているだけで、実はみんながその穴場を共有しており、気がついていないだけだ…そんなふうに話が進む。私も釣り仲間から多くの〝穴場〟を教えられたことがあるが、ことごとく〝穴場〟などではなく、みんなの釣り場であった。

 

閑話休題。この作品はやがてミステリの色合いを帯びる。そして、〝真実〟を浮かび上がらせるエンディングの余韻。その時、「穴場なんてものはね、そうあるもんじゃないです」で始まる冒頭のシーンが壊れた映写機のように読者の頭の中をグルグルと駆け巡るのだ。短編小説の愉悦とはこういうことを言うのだろう。

 

神吉拓郎には『ブラックバス』という作品集もあり、表題作は終戦直前、疎開先の箱根で釣ったブラックバスを釣る少年の心の機微を描いた一編らしい(未読)。読んだ人の話だと、その中にブラックバスを放流したのは祖父の知人だという記述があるということで、これは作者の実体験にも基づいているのかもしれない。赤星鉄馬という実業家が大正14(1925)年、箱根・芦ノ湖に放流したのが、わが国におけるブラックバス移植の初まり。神吉さんの祖父はその友人だったということだろうか。ちなみに父親はナチュラルライフの聖典ともいえるヘンリ-・ソロー『森の生活』(岩波文庫版)を翻訳した神吉三郎である。

そういえばつい最近、あるFBフレンドの方が赤星鉄馬の血縁らしいとわかって驚いたばかりだった。コロナ禍の蟄居生活の中で浮き世のよしなしごとが不思議な縁で結ばれていくのをぼんやりと眺めている。

 

私生活 (P+D BOOKS)

私生活 (P+D BOOKS)

 

ペーパーバック(P)でも、電子本(D)でも読める。 

 

二ノ橋 柳亭 (光文社文庫)

二ノ橋 柳亭 (光文社文庫)

 

 「ブラックバス」を収録。さっそくkindle版をポチりました。