語られる思いと語られぬ思い
『風の歌を聴け』は、ヴォネガットや太宰治やカミュや初期の大江健三郎、倉橋由美子等の作品とともに、私の進路に影響を与えた文学作品であった。この小説のイメージは「夏の終わり」だ。なので今頃の季節になると、この小説をことを思い返して、ぱらぱらと本をめくってみたくなる。
同時代にこの小説に衝撃を受けた多くの人が語るように僕も「日本語の小説はこういう可能性、書き方があるんだ!」という驚きを感じた。村上は最初英語で書いた小説を日本語で書き直すカタチでこの処女作を書き上げたと言っている。
高校の終わり頃、僕は心に思うことの半分しか口に出すまいと決心した。理由は忘れたがその思いつきを、何年かにわたって僕は実行した。そしてある日、僕は自分が思っていることの半分しか 語ることのできない人間になっていることを発見した
(村上春樹『風の歌を聴け』)
この一節を初めて読んだ頃、私はまさに「高校の終わりの頃」だったし、上記の「思いつき」を自分も実行していたから、その部分でもほんとうに驚いた。
いつその「思いつき」をやめたのか判然としないのだが、確かに私は自分の思っていることの半分しか語ることのできない(あるいは語ろうとしない)人間になっていった。「語る」と「思う」は、私にとって全く別の位相にある出来事なのである。「語る」ことのない「思い」は自分の中でずっとその出番を待ち続けている。機会を得て語られることもあるし、それっきり忘れ去られた「思い」もある。
そしてこうした性癖は、不思議なことに私の職業にとって今のところプラスに働いているようなのである。