プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

「恋と革命のインドカリーの日」なので『中村屋のボース 〜インド独立運動と近代日本のアジア主義』雑感。

 

中村屋のボース―インド独立運動と近代日本のアジア主義

中村屋のボース―インド独立運動と近代日本のアジア主義

 

リベラル保守」の論客としてメディアでも盛んに発言されている中島岳志氏の出世作が本書だ。過激なインド独立の闘士・ラース・ビハリ・ボースが、日本に亡命し、第二次大戦に突入していく日本の国情に翻弄されながらインド独立を模索し、志し半ばで亡くなるまでの人生を描いた労作。大佛次郎論壇賞、アジア・太平洋賞「大賞」を受賞している。少し前に読んだ本だが、今日はこの本の中身に関係する「恋と革命のインドカリーの日」だそうなので、思い出して感想をまとめてみた。

 本書で印象に残るのはインド総督に爆弾を投げつけるなど武闘派だったボースが日本で長年生活するうちに「和」を重んじる人になり、それがともすれば仲間であるインドの独立運動家たちから「裏切り」と見られてしまうという悲劇だ。インド独立という悲願達成のためには、帝国主義的との理由で当初は批判的に見ていた日本政府を利用するしかないと考えたボースは、軍部への協力を惜しまなくなり、最終的には大東亜戦争を積極的に評価して日印両国国民にその意義を説くようになる。本書の副題にも示唆されているように「近代化された西洋による植民地支配を克服し、東洋的精神を敷衍させるためには、西洋の近代化された手法、特に軍事力を用いてなくてはならない」という日本のアジア主義者たちの矛盾も描かれる。ボースは彼らの矛盾も自分のモノとして呑み込み、日印両方の人々に気配りしながら、いっそう苦悩を深め、道半ばで斃れた。本書はその人生をどのように考えるか、読者に強く訴えかけてくる。

といっても暗い世情と政治的苦悩が描かれたばかりの本ではなく、前半の2〜3章ではまさに「恋と革命のインドカリーの日」のエピソードが展開される。「国粋右翼」の巨頭・頭山満A級戦犯となった大川周明アジア主義者たちの男気と義侠心。日本のカレーに「これじゃない!」感を抱いていたボースが恩のある中村屋に「印度式カリー」をもたらす経緯(中村屋はそのインドカリーの味にこだわり、今に伝える)。進歩的な日本人であった中村屋相馬愛蔵・黒光夫妻との交情、相馬家の娘である俊子とのロマンスと結婚、ふたりの間に生まれた子どもたちとの関わりなどはじつに心温まるエピソードだ。俊子を早くに失ってしまったボースが生涯独身を通したことも彼のピュアなキャラクターを浮かび上がらせ、もう一人のボースである(やや権威主義的な人物である)「チャンドラ・ボース」との違いも際だたせる。

この本の最終ページを閉じると、80年前にボースが背負った矛盾はこの平和な時代でも我々が背負わなければならないものだし、いまや無風地帯となった現代日本政治状況の中で真にリベラルであることへの苦悩は中村屋のボースの苦悩からそれほど遠くはないものではないかとの感慨が胸の中を駆け巡った。そして現在「リベラル」と称して発言している人々の脳天気の向こうに夕日のような諦念が沈んでいくのを、為す術もなく眺めている。

 

 ※現在、入手しやすいのはコチラの新書版だろう。若くして亡くなった単行本編集者への追悼を含むあとがきも加えられている。