プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

『外来種は本当に悪者か? 新しい野生 THE NEW WILD』読後につらつらと。

 

外来種は本当に悪者か?: 新しい野生 THE NEW WILD

外来種は本当に悪者か?: 新しい野生 THE NEW WILD

 

昔、キューピーマヨネーズの広告コピーに「考えてみれば、 人間も自然の一部なのだ。」というのがあった。ライトパブリシティ秋山晶氏の仕事である。1960年代から現在まで、半世紀以上にわたってアートディレクターの細谷巌と組んでずっとキューピーマヨネーズの広告を続けているコピーライター界の生き仏みたいな方である。僕は今でもアイデアや発想に詰まると、広告批評から出ていた「秋山晶全仕事」をパラパラめくっているのである。

秋山氏の広告コピーはとにかくかっこいい。クールでドライでのどごしが良いクアーズのような味わいがある。そしてイメージも含めた情報伝達速度が素早い。受け手は気がついたら彼の世界へ持って行かれ、対象となる商品の価値に納得している。コピーライターの仲畑貴志氏はそれを「弾丸のように早くコミュニケート可能な文体」と評した。

しかし、そんな秋山氏でも「人間が自然の一部」であることは、一拍おいて「考えて」みなければならなかった。人間はそれほど自然から離れてしまった。いや、離れようともがいた歴史が人類史なのかもしれない。

外来種は本当に悪者か? 新しい野生 THE NEW WILD』は、そんな自然からはるかに遠くまで来てしまった人間に向けた挽歌のような論考である。私は昔からほぼこの著者と同様のコンセプトで自然を考えてきたので、わが意を得たりの読後感であった。

人為的に持ち込まれた外来種生物多様性なり、バランスの取れた生態系を壊すという話は世界各地で問題視されており、日本ではブラックバスなどがその象徴として扱われた。でも議論の行方を見ると、概ね科学的知見と政治的判断の意図的な混交が行われ、「人間は自然の一部にすぎない」というもっとも原初的な、本来は科学者であれば誰もが立脚しなければならない立場が最初から忘れ去られてしまっている。僕はそこの部分で外来種排斥の議論にまったく賛同できなかった。

著者は外来種を一方的に悪者と考える風潮に意義を唱える。とはいえ野放図に外来種をばらまいていいと言っているわけではなく、外来種駆除にさほどのエビデンスもなく多額の労力と費用を掛けることの愚に言及しているに過ぎない。移入後にその場所の生態系に組み込まれた外来種を駆除することでそれを住処や食料として利用している在来種も絶滅に追いやるなど逆効果でもあるケースをいくつか指摘しながら、固定した「昔ながらの生態系」という思念に大きな疑問を投げかける手際はなかなか説得力がある。

 

本書のAmazonカスタマーレビューに、どうやら生物研究者の方とおぼしきレビュワーがかなり批判的なレビューを書いている。この本に事実誤認が多いと具体的な箇所をあげて批判しているのだが、それは事実誤認というより、立場と見解の相違にしか見えない。一例を挙げると下記がそうだ。

 

p.313「人間の存在もひっくるめて自然」これも間違い。人類は別枠です。生物多様性保全を「自然のために」しているなら、人類がいない方が良いのです。しかし、生物多様性保全における外来種対策は「人間のために」やっているわけで、人類は別枠で考えないとはじまりません。

 

 これは「人類は別枠」というきわめて社会的・政治的判断を、科学者なのに唐突にあたかも科学的エビデンスのように扱っているだけの話で、本人の悪意はなさそうだが極めて噴飯モノのミスリードだ。

「考えてみれば、 人間も自然の一部なのだ。」とキューピーマヨネーズが会社ぐるみで思念を及ぼしたとおり、外来種問題に関して言えば、外来種を持ち込んだりする人間も自然の一部であり、人為的な外来種の移入も自然の中の一エピソードに過ぎないと言うことができる。

実は外来種問題は社会的・政治的問題に過ぎないわけだけれど、少なからぬ科学者が文系の口車に乗せられ、あたかも科学的エビデンスであるかのように「人類は別枠」などというはったりを主張したがるのである。

 

「考えてみれば」おそらくはその方が研究費をもらいやすいのだろうな。
 

そして「考えてみれば」歴史上、日本でもっとも広く蔓延した外来種の一つがイネなのだが、米作農家排斥の声はいまだに聞こえてこない。

 

広告批評の別冊 秋山晶全仕事

広告批評の別冊 秋山晶全仕事