プログレッシブな日々

混沌こそ我が墓碑銘。快楽の漸進的横滑り。

「日本も、けさから、違う日本になったのだ」

 

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久しぶりに政治の話をする。

 先の衆院選において、何人かの(リベラルな)純文学作家の方々が反アベ政権の立場から発言していて、ことごとく幼稚かつ的外れで呆れた。文学の言葉が現実への影響力を失って久しいが、その自覚がないままに現実を語る言葉の浅薄さにはもにょんとするしかない。
 まあ、文学者に限らないのだが、現政権への批判者の多くが、安倍晋三は好戦的なナショナリストであり、ナチスヒトラーにも匹敵する独裁政治を進めようとしている…という視点での政権批判を行っている。いわゆる「モリ・カケ」問題に関しても、独裁者が友達を優遇するために官僚に忖度を求めたというストーリーにしたいように見受けられるが、森友の夫婦が詐欺師だったり、安倍夫人が相変わらず軽率だったり、官僚は省益のために平気で公文書をなきものにするなどの事実は浮き彫りにされたけど、肝心の首相の疑惑に関しては半年たっても何ら証拠は出てこず、結局は単なる言いがかりであることが明らかになってきた。
 安倍晋三の反対者たちは、彼が独裁者をめざしているわけではなく、彼なりの「平和な民主国家」を築こうとしているということに目を向けた方が良い。そこを出発点にして初めて、現政権への有効な反駁が可能になるだろう。その中で経済・金融政策に関してはなんとか巧く綱渡りを続けており、外交に関してはむしろ加点が多いことに着目すべきだ。意味不明な「独裁者」批判をし続けても、そう言っている本人の身がいつまでも無事であるという矛盾を国民は大いに嗤っている。個人的に安倍晋三は好きな政治家ではないが、現時点では経済と外交における長期政権のメリットというものをしみじみ実感せざるを得ない。

 

まあしかし、私を含めた国民というものも決して当てにはならない。

 

日露戦争で戦争の継続を訴え、日米戦争開戦時に黒船来航以来の胸のつかえがとれたという日本国民。当時の記録や文章を読むと、戦争責任は、多くの普通の庶民にあることがよくわかる。政治家と軍人の優柔不断と手前勝手なファンタジー(どちらも日露戦争時はその終結をもっとも願ったリアリストだったのだが、昭和になると堕落していた)が、そんな国民の情念を後押しした。

33歳の太宰治でさえ、日米開戦の一報を聞き、

 

 強い光線を受けて、からだが透明になるような感じ、あるいは精霊の息吹を受けて、つめたい花びらを胸の中に宿したような気持ち。日本も、けさから、違う日本になったのだ

(太宰治『十二月八日』)

 

 

などと、頬を染めて熱弁しているくらいだ。他は押して知るべし。文学者カナリアとしてはまったく無能である。

  今回の衆院選では、鳴り物入りの小池党=「希望の党」が盛大にこけたために、ミンシン党を解体した前原誠司という人が揶揄の的になっているが、私は前原さんの蛮勇があってこそ、野党のもやもやした閉塞状況打開のキッカケがつくられたと思う。希望の党も、立憲民主党も、このままではグズグズになる可能性が高いけど、「日本も、けさから、違う日本になったのだ」といえる局面を開いた功績は認めてあげたい。たとえ新たな混迷の始まりだとしても、閉塞よりはマシだろう。ただ、前原さん本人はそうした思慮ではないような気もするけど。