『騎士団長殺し』をめぐる冒険
「歴史の中には、そのまま暗闇の中に置いておった方がよろしいこともうんとある。正しい知識が人を豊かにするとは限らんぜ。客観が主観を凌駕するとは限らんぜ。事実が妄想を吹き消すとは限らんぜ」
先日、大河ドラマで小林薫が演じる戦国領主井伊家縁戚の僧侶を見ていて、ああ、この人が80年代に映画化された『風の歌を聴け』で主人公の〝僕〟を演じたのだったと思い出した。〝僕〟の相棒である〝鼠〟をヒカシューの巻上公一、「ジェイズ・バー」のマスターをジャズサックス奏者の坂田明が演じていた。いかにも低予算なつくりだったが、なかなか面白い映画だったと思う。
先日読了した『騎士団長殺し』は、長年、村上春樹の長編作品のことになると奥歯に物が挟まったような物言いしかできなかった僕にとって、久々に手放しで「面白い!」と言えた小説だった。それは『風の歌を聴け』からはるばるここまで来たのだなあ…という感慨を伴うものであったし、それまでのイマイチだった長編小説群の存在意義を再考させるものでもあった。
今回も他の村上作品同様、「中年男の自分探し」という揶揄もあるかと思うが、実はそれこそ作者の狙いであって、村上はデビュー直後にレイモンド・チャンドラーを論じた文章の中でハードボイルド小説の基本スタイルである〝Seek and Find〟を自らの小説作法としているという宣言をしていた。探偵小説で探すのは犯人や証拠だが、文学作品で探すのは自分もしくは自分に関わる人もしくは事象(恋愛含む)と相場は決まっている。ナチズム、南京事件、東日本大震災などリアリスティックな歴史事象も作品中に登場するが、事件そのものは深くは追求されない。あくまでもそこに追い込まれた人間の内面こそが作者の関心事だろう。
そもそも村上が『風の歌を聴け』でデビューした際は、全共闘世代(団塊の世代)が抱く悔恨の新しい表現という側面があったと思う。体制や社会、あるいは家族や世間への熱い反抗ではなく、自らの心の内(主観)へのクールな内観を作品の骨格とすることでより広範な一般性、すなわち同時代的なポップさを獲得したのが『風の歌を聴け』からの三部作(もしくは『ダンス・ダンス・ダンス』を含む四部作)であった。
そういう作品世界で、〝現実〟は心象風景の中に存在するので、リアリティの方向性は必然的に抽象的というか、ファンタジックなものにならざるを得ない。2作目『1973年のピンボール』と3作目『羊をめぐる冒険』でファンタジー方面に拡張した自意識を、村上は『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』でリアルな世界と対置し、さらに『ノルウェイの森』でファンタジーの創意を反転させ、リアルな文脈へ〝翻訳〟することを試みた(ヒントになったのは『ガープの世界」のジョン・アーヴィングだろう)。作品世界でリアルとファンタジーの仲立ちをするのはセックスであり、『ノルウェイの森』からその描写に力が入るようになっていく。セックスを内面探訪のテコにするこうした感性は、いかにも全共闘世代だなあという感想を僕は持つ。
しかし幸福な70〜80年代は風のように過ぎ去り、我が国が経済後退の時代に入ると、セックス表現を含めた村上の表現のカタチは、次第に時代感覚からずれ始めてきたと僕は考える。村上のセックス描写が揶揄されるのは、不景気の時代に苦悶する30〜50代が抱く、勝ち逃げ組の団塊世代への反感と呼応しているように思える。
余談だが、90年代は逆に中国や韓国といった儒教倫理が息づく国における村上作品の評価と人気は高まっていき、英語を始め西欧語に翻訳された村上作品も各国で好評のうちに迎えられる。そして現在、村上春樹はノーベル文学賞候補の常連の国際作家だ。レディオヘッドのトム・ヨークが熱心な村上作品の読者であることはよく知られているが、歌詞から読み取れるトムの内省はきわめて80年代的であり、どこか東洋的でもある。
それはさておき、バブル崩壊以降、村上の「自分探し」のストーリーテリングや奇妙なメタファー、そして直截なセックス描写は次第に揶揄の対象ともなり、どこにもたどり着かない物語展開と伏線を残し釈然としないまま終わるエンディングなど、村上自身の創作者としての試行錯誤は、あたかも踏み絵のように熱烈なファンとアンチを腑分けしていく。初期は熱烈なファンだった僕もこの時期から村上作品に対して冷ややかな姿勢を取るようになった。それでも離れなかったのは、短編作品が秀逸だったからだ。村上春樹は本質的に短編作家ではないか? そんな思いをこの頃から抱き始めた。実は今でもそう思っている。また、ノンフィクション作品『アンダーグラウンド』で地下鉄サリン事件被害者を描く筆致に作家のまだ顕在化していないポテンシャルを強く感じた。でも、長編作品はどうにも楽しめなかったのも事実である。そのいくつかは積極的に駄作だと思っている。
そして僕が長編では『ダンス・ダンス・ダンス』以来、初めてなんの屈託もなく読めた長編作品が『騎士団長殺し』だった。いろんな書評に目を通すと、良くも悪くも〝村上作品の総ざらえ〟という意見が目に付くが、僕が気になったのは作者が初めて「父(の死)」と「グレート・ギャツビー」を正面から扱っていることである。おそらくこの二つは、長年にわたって村上春樹が逡巡してきたテーマだろう。しかし、村上作品中でこの二つが重要なモチーフとして扱われたことはなかったのだ。
村上が彼の人生でもっとも重要な小説だと言うフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』に関しては、2006年に自身の新訳を出版している。また2009年のエルサレム賞受賞時のスピーチで、村上は前年に亡くなった父親が兵士として中国での戦闘に従事したことを明かした。おそらくこれで準備は整った。今作が久しぶりに一人称「僕」への回帰であることにも留意したい。
今回は大きな設定として免色という人物が「ギャツビー」的世界を体現し、痴呆症になった(友人の)父の死を描ききることで、それまでの長編作品で周回する人工衛星のようだった作者の筆致が成層圏を突き破り、ようやく着陸地点を見定めたように感じられた。作品のライトモチーフであるオペラ『ドン・ジョバンニ』はずばり父親殺しとその顛末の物語である。読者に対するおためごかし的な描写・設定や脇筋が最小限に抑えられ、全体的にこれまでになく引き締まった小説になっているように思え、特に屈託を挟む余地はなかった。エンディングは、いくつかの伏線が回収されぬまま擱筆されているが、変な消化不良感はない。むしろ『1Q84』のように蛇足的な続編(3巻目)が書かれないことを祈りたいぐらいだ。
「絵に語らせておけばよろしいじゃないか」と騎士団長は静かな声で言った。「もしその絵が何かを語りたがっておるのであれば、 絵にそのまま語らせておけばよろしい。隠喩は隠喩のままに、暗号は暗号のままに、ザルはザルのままにしておけばよろしい。 それで何の不都合があるだろうか?」
(村上春樹『騎士団長殺し』〜 騎士団長の台詞より)
まったくおっしゃる通り。主人公を(一人なのに)「諸君」と複数形で呼ぶ、イデアの形象化だというこの騎士団長こそが不特定多数に語りかける作者の分身ではないかと思った。
村上春樹の『騎士団長殺し』に至る30数年と並行して、映画『風の歌を聴け』でクールで繊細、不器用そうな〝僕〟を演じた小林薫は、戦国期を逞しく生きる海千山千の僧侶を演じるようになり、ヘタウマ・テクノの巻上公一がジャズロックまがいの超絶リズムセクションを従え、達者なヴォーカルとホーミーとテルミンを駆使したテクニカルかつスケール感あふれる音楽をパフォームしている。坂田明だけは、容姿を含めて30年間微動だにしていないように思えるが、もともと彼は融通無碍な人物なのだから何ら問題はない。
『騎士団長殺し』のクライマックスには「風の音に耳を澄ませて」というフレーズが出てくる。もちろんデビュー作『風の歌を聴け』を想起させ、長年の読者をニヤリとさせるためだろう。その余裕がこの作品に対する作家の充足感を表しているように思える
僕? もちろんニヤリとしたよ。